光ネットワークの大容量化と長距離化を実現する非線形ひずみ補償技術

公開日 2020年5月27日
5G星田 剛司, 中島 久雄, 小田 祥一朗, 谷村 崇仁

膨大な通信トラヒックを支える光ネットワークは,今日まで5年で10倍という急激な大容量化を遂げてきた。しかしながら,現在主流となっている1波長あたり100ギガビット毎秒の光伝送容量を超えて,今後も400ギガ~1テラビット毎秒クラスの大容量通信の実現を継続するためには,大容量化を阻む残された要因である光ファイバー伝送路内で生じる非線形光学効果による光信号の波形ひずみ(非線形ひずみ)を克服する必要がある。非線形ひずみへの対策技術として,いくつかの比較的素朴な提案が学会でなされていたが,回路規模が非常に大きく,現実的な解決策として適用には限界があった。これに対して筆者らは,現在の光伝送で主流となっている多値・偏波多重伝送に対して,非線形ひずみ補償の計算複雑性を大幅に低減する非線形ひずみ補償方式を提案することでこの課題を克服し,非線形ひずみ補償を搭載した光送受信器を世界で初めて実用化した。

本稿では,大容量光送受信器のための非線形ひずみ補償技術について述べる。

1.まえがき

インターネットを行き交う情報量(通信トラヒック)は,スマートフォンやクラウドサービス,動画配信サービスなどの普及により年率1.2倍以上で増加しており[1],今後の新サービスや第5世代移動通信技術(5G)の登場によって更に爆発的に増大すると予想される。インターネットを支える基幹ネットワークである光ネットワークは,今日まで5年で10倍という大容量化を遂げてきたが,今後の爆発的なトラヒックの増加に対応するためには,更なる大容量化が必要不可欠である。

現在の商用光ネットワークは,1波長あたり100ギガビット毎秒の光伝送容量が主流となっている。しかしながら,今後もこれを超えて,400ギガ~1テラビット毎秒クラスの大容量・長距離光伝送を実現し,増大する通信トラヒックを今後も収容し続けるためには,大容量化を阻害する要因である,光ファイバー伝送路中で生じる非線形光学効果による光信号の波形ひずみ(非線形ひずみ)に対処する必要がある。

一般に光通信システムの大容量・長距離伝送を実現するためには,光信号パワーと光雑音パワーの比である光信号対雑音比(Optical Signal-to-Noise Ratio:OSNR)の向上が不可欠である。光中継増幅器で付加される光雑音パワーの低減には物理限界があるため,OSNRの向上には光信号パワーを高めることが望ましい。しかしながら,光ファイバー伝送においては,光信号パワーを高めると,光ファイバーの材質であるガラス中で発生する非線形効果(光カー効果)による信号波形のひずみが顕著となり,大容量化の妨げとなる[2]。その対策技術の一つとして,デジタル信号処理技術により非線形ひずみを補償する技術が提案されていた(図-1)[34]。この技術によって,高い光信号パワーで発生する非線形ひずみを補償することで,OSNRの改善による信号品質の向上が期待できる。しかしながら,効果と回路実現性を両立可能な方式はなく,実用化の課題となっていた。

図-1 非線形ひずみ補償技術の効果

この課題に対して筆者らは,光ファイバーにおける非線形の波形ひずみの要因を複数の詳細なひずみ要因に分離し,更に新規の近似的な非線形ひずみ解析式を導入することで,非線形ひずみ補償の計算複雑性を大幅に削減し,現実的な回路規模と消費電力で動作する非線形ひずみ補償デジタル信号処理回路を開発した。更に,本非線形ひずみ補償回路を光送受信器に搭載することで,光信号パワーの増大に伴う非線形ひずみによる性能限界を緩和し,大容量および長距離化を可能にした[56]。

本稿では,大容量・長距離光伝送を実現する,これら非線形ひずみ補償技術について解説する。

なお,「大容量光送受信器のための非線形ひずみ補償技術の開発」の業績によって,筆者らは令和2年度科学技術分野の文部科学大臣表彰 科学技術賞(開発部門)を受賞した[7]。

2.従来技術

非線形ひずみは,光ファイバー中で同時に発生する線形ひずみ(光ファイバー中の波長分散として知られる)と渾然一体となり,複雑な符号間干渉を発生させる。本技術の検討を開始した2008年以前にも,この複雑な符号間干渉を補償するための技術が学会などで複数論じられていたが,いずれも非常に複雑な回路が必要であり,実用化へのハードルが高い状況にあった。

これらの従来技術の中で,最も広く知られた手法の一つとして,光ファイバー内の光信号の伝播をデジタル信号処理上で仮想的に逆伝播することで非線形ひずみを補償する,後方伝播法がある(図-2)。後方伝播法では,光ファイバー中の光伝搬を記述する基本方程式(非線形シュレディンガー方程式およびマナコフ方程式)の数値解析手法である,スプリットステップフーリエ法の考え方を援用している。この手法では,光ファイバー内の光信号の伝播を線形効果と非線形効果の繰り返し演算で表現する。光受信器側では,光ファイバー伝送路とは逆の特性を持つ線形ひずみ補償(Linear Equalizer:LE)と非線形ひずみ補償(Non-Linear Equalizer:NLE)の各回路を繰り返し適用することで,光ファイバー伝送路全体で生じた線形・非線形ひずみの補償を行う。

図-2 後方伝播型非線形ひずみ補償技術

後方伝播法では,LEとNLEの組から成る回路を基本ブロックとして,この繰り返し数(段数)を大きくすることで,非線形を含むひずみ補償性能を高めることができる[8]。しかしながら,この基本ブロックは,回路規模が大きいFFT/IFFT[9]回路を含み,これが更に多段に接続されるため,全体の回路規模が巨大となる。そのため,光送受信器に求められる回路規模・消費電力を考慮すると,実用化が困難な技術であった。

3.今回開発した非線形ひずみ補償技術

前章で述べた課題に対して筆者らは,回路規模を大幅に削減する新たな非線形ひずみ補償技術を開発した。この技術は,光ファイバーの非線形光学効果によるひずみを,信号帯域内の光信号により生じるチャネル内非線形ひずみと,信号帯域外の隣接の光信号により生じるチャネル間非線形ひずみに分離し,各々のひずみを個別の補償回路で効率的に補償することを特徴とする。チャネル内非線形ひずみ補償では,新規の近似的な非線形ひずみ解析式を導入することで,計算複雑性を大幅に削減し,回路規模1/10の簡易化を図った。加えて,チャネル間非線形補償では,100ギガビット毎秒を超える光伝送で標準的に用いられている,偏波多重伝送方式特有のチャネル間非線形ひずみ(非線形偏波クロストークと呼ばれる)に着目し,このひずみを効率的に補償可能な技術を確立した。これらの技術により,高い非線形ひずみ補償性能と回路規模の大幅な削減を実現し,世界初の実用化を可能とした。

本章では,この技術を構成する二つの要素技術について述べる。

3.1 低回路規模チャネル内非線形補償技術

本研究では,チャネル内非線形補償を効率的に補償するため,偏波多重伝送の基本方程式(マナコフ方程式)に着目し,更に非線形摂動解析の手法を適用することで,基本方程式の計算複雑性を大幅に削減した近似非線形ひずみ解析式を提案した。

従来の補償方式では,複数の光ファイバーと光中継増幅器から成る長距離伝送路に対しては,図-3に示すように10段以上の基本ブロック(LE+NLE)が必要である。これに対して,図-4に示す摂動解析を基にしたアルゴリズムでは,光ファイバー伝送中の線形ひずみによるパルス広がりによるパルス間の相互作用や偏波間の相互作用を考慮することで,非線形ひずみ補償回路の性能の向上と,回路規模増大の大幅な抑制を実現した(図-3)。これにより,提案した非線形ひずみ補償では,一桁少ない基本ブロック段数で同等のひずみ補償性能を得ることができる。

図-3 摂動型非線形ひずみ補償方式による演算規模の削減

図-4 摂動解析手法を用いた非線形ひずみ補償アルゴリズム

3.2 チャネル間非線形ひずみ補償技術

光ファイバー伝送では複数のチャネルを波長多重して伝送する波長多重伝送技術が幅広く用いられている。このような波長多重伝送システムでは,波長チャネル間の非線形ひずみによっても伝送性能が制限される。本研究では,チャネル間非線形ひずみの一つである非線形偏波クロストークを,小規模なデジタル回路で効果的に補償する非線形偏波クロストークキャンセラーを提案した。特に,10ギガビット毎秒の強度変調信号が既に導入されている既存システムへ,更に大容量の光信号を段階的に導入する場合では,非線形偏波クロストークが多く発生する。提案した非線形偏波クロストークキャンセラーを搭載した光送受信器を用いることで,既設光ファイバーネットワークへ大容量光信号を導入する場合に発生する非線形ひずみを抑圧し,より経済的に光ネットワークの大容量化を進めることが可能となる。

4.評価

本章では,開発した技術の性能評価について述べる。

図-5に,開発した非線形補償回路を搭載したLSIを用いた100ギガビット毎秒の光伝送システムでの性能評価結果を示す。開発した非線形ひずみ補償技術を用いることで,同じビット誤り率(Bit Error Rate:BER)を3 dB低いOSNRで達成できており,これは最大2倍程度の伝送距離の延伸が可能であることを意味している。受信信号の波形を比較すると,開発技術(非線形ひずみ補償技術)が信号点のばらつきを減少させ,復調波形の品質を改善していることも見て取れる。本評価では100ギガビット毎秒の光信号を用いたが,提案技術を400ギガ~1テラビット毎秒クラスの光信号伝送にも適用することで,更なる大容量・長距離伝送が可能となる。

図-5 性能評価結果

5.むすび

本稿では,大容量光送受信器のための非線形ひずみ補償技術について述べた。

検討を開始した2008年の時点で,非線形ひずみ補償は,学術的研究は先行するものの,その巨大な回路規模から実用化は絶望的と見られていた。これに対して筆者らは,光通信分野の国内外の会議で複数の招待講演を含む多数の論文発表を行い,非線形ひずみ補償に関わる研究成果の発信と技術の普及に努め,大学や海外競合他社も巻き込んだ一大研究分野の形成に至らしめることで,技術開発を加速した。更に,学術的研究と実用化指向の両輪で試行錯誤を繰り返し,大幅な回路規模削減を達成し,足かけ9年の時を経て世界初の実用化を達成した。

今後,本技術の更なる発展により,超大容量・長距離通信ネットワークがより進化し,世界中で進行する高度情報化社会の礎となることを期待したい。

本研究の開発成果の一部は,独立行政法人情報通信研究機構(NICT)の委託研究「光トランスペアレント伝送技術の研究開発(λリーチ)」,および総務省委託研究「超高速・低消費電力光ネットワーク技術の研究開発」(平成25年度補正)により実施したものである。


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参考文献・注記

  1. 井上 恭:ファイバー通信のための非線形光学.森北出版,2011年3月.本文へ戻る
  2. G. Goldfarb et al.:Demonstration of fibre impairment compensation using split-step infinite-impulse-response filtering method.Electron.Lett.,Vol.44,No.13,pp.814-816,June 2008.本文へ戻る
  3. T. Hoshida et al.:Digital nonlinear compensation for spectrally efficient superchannel transmission at 400Gbit/s and beyond.European Conference on Optical Communication and Exhibition on Optical Communication,paper We.3.3.1,September 2014.本文へ戻る
  4. L. Li et al.:Nonlinear Polarization Crosstalk Canceller for Dual-Polarization Digital Coherent Receivers.The Optical Fiber Communication Conference and Exhibition/National Fiber Optic Engineers Conference (OFC/NFOEC),OWE3,March 2010.本文へ戻る
  5. W. Yan et al.:Low Complexity Digital Perturbation Back-propagation.European Conference and Exhibition on Optical Communication,paper Tu3.A.2,September 2011.本文へ戻る
  6. E. Ip et al.:Compensation of Dispersion and Nonlinear Impairments Using Digital Backpropagation.J. Lightwave Technol.,Vol.26,No.20,p.3416-3425,Oct. 2008.本文へ戻る
  7. 高速フーリエ変換/逆高速フーリエ変換(fast Fourier transform/inverse fast Fourier transform)の略。信号を時間領域から周波数領域へ,またはその逆へ変換する離散フーリエ変換を計算機上で高速に計算するアルゴリズム。本文へ戻る

著者紹介

星田 剛司(ほしだ たけし)富士通株式会社
未来ネットワーク統括部
超高速・長距離光伝送システム技術の開発に従事。
中島 久雄(なかしま ひさお)富士通株式会社
未来ネットワーク統括部
超高速・長距離光通信のデジタル信号処理技術の開発に従事。
小田 祥一朗(おだ しょういちろう)富士通株式会社
未来ネットワーク統括部
超高速・長距離光通信の高効率伝送,運用自動化技術の開発に従事。
谷村 崇仁(たにむら たかひと)富士通株式会社
未来ネットワーク統括部
超高速・長距離光伝送,通信向けデジタル信号処理,および機械学習・深層学習を用いたネットワーク状態推定・運用自動化技術の開発に従事。

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