[共同研究]がん患者のQOLを高める「がんゲノム医療」の普及拡大を目指して—治療薬の選択を支援するAI技術とは

がん組織の遺伝子変異を解析した上で最適な治療を行う「がんゲノム医療」は、一人ひとりのがんの遺伝子変異に応じたオーダーメイド医療を実現できることから、「夢のがん医療」と期待が寄せられています。

2019年には「がん遺伝子パネル検査」が保険適用となるなど、「がんゲノム医療」の普及が進められている一方で、高度なゲノム情報の知識を持つ専門医の不足、治療薬選択の難しさなどの課題も。
富士通は、あらゆる人のライフエクスペリエンスを最大化し、個人の可能性を拡張し続けられる世界の実現を目指し、「Healthy Living」の取組みを推進しています。
愛知県がんセンターと富士通が共同でプロジェクトを推進する、がんゲノム医療の普及拡大と患者の人生の質(QOL, Quality of Life)向上を目指した、医師による薬剤選択に必要な業務を支援するAI技術搭載の臨床現場向けシステムの開発は、そうした取り組みのひとつです。

この取り組みを牽引する愛知県がんセンター研究所 所長の井本逸勢氏と、富士通コンピューティング研究所の富士秀に、本プロジェクトが、がんゲノム医療にもたらす意義、well-beingの実現に懸ける想いについてお聞きしました。

目次
  1. がんゲノム医療で患者のQOLを高める最適治療を
  2. 2つのAI技術で医師の治療薬の選択を支援
  3. 医師に優しいシステムを目指して
  4. ウェルビーイングの実現が共同研究の原動力に

がんゲノム医療で患者のQOLを高める最適治療を

――現在、臨床の現場では、どのようながんゲノム医療が展開されているのか教えてください。

井本氏: がんゲノム医療では、まず患者さんのがん組織や血液をもとに、がんの発生に関わる遺伝子の変異を調べる「がん遺伝子パネル検査」を実施します。もし薬への反応や副作用を予測することができる遺伝子の変異が見つかった場合には、効果が期待でき、国内で使用可能な治療薬を探して最適な医療の提供につなげます。

愛知県がんセンターでは、次世代のがん医療を築き上げるための基盤づくりを目標に掲げ、研究所と病院とが共同して世界トップクラスのがんの研究と医療を推進しています。近年では、がんの増殖や転移に関連するがん特有のたんぱく質にのみ効果を示す「分子標的治療薬」の開発も進んでいます。これにより正常な細胞を傷つけずに、高い効果と低い副作用を期待できます。ただし、現状は分子標的治療薬含めて、すべてのがんの遺伝子変異に対応した治療薬が存在するわけではありません。がん遺伝子パネル検査で調べられる約300の遺伝子に対して、使用可能な薬のある遺伝子は現在でも20程度に留まっており、治療薬の開発が急がれている状態です。

――治療薬の開発以外に、どのような課題がありますか?

井本氏: 狙い撃ちできる遺伝子の数が少ない、遺伝子変異の状況次第で薬が常時効くわけではない等の様々な課題が挙げられますが、臨床医の課題としては、「がん遺伝子パネル検査の結果を踏まえてどの治療薬を選択するか」の判断までに時間がかかることが挙げられます。医師は、治療薬として検討中の薬剤の効果について、たくさんのデータを集めて比較することが重要ですが、一方で、日々新たな情報がアップデートされていく中で、一人の医師や研究者が無数にあるデータベースや論文を網羅的に調べることは負担も大きく、困難です。このことから、がんゲノム医療の普及には、できるだけ多くの信頼できる情報を医師に迅速に提供するシステムによって、医師の薬剤選択に関わる業務を支援する必要性を感じていました。

医師がより短時間に簡便な方法で、候補治療薬の選択や効果の予測ができるようになることで、検査から薬剤選択までの時間を短縮することが期待できます。医師はその分の時間を一人ひとりの患者に向き合い、より効果の期待できる治療薬の選択、投薬の順番、不必要な治療を避ける治療計画等、個々の患者のQOLの観点から、さまざまな選択肢を提案できるようになっていくことが、がんゲノム医療の本質だと考えています。

2つのAI技術で医師の治療薬の選択を支援

――富士通はがんゲノム医療が抱える課題に対して、どのようなアプローチをしてこられたのでしょうか?

富士: 富士通では、2016年にゲノム医療に向けたAIの研究をスタートし、京都大学や東京大学医科学研究所と共同研究で連携し、先生方から分野における高度な知見をいただきながら技術を立ち上げてきました。研究開発では、現在時間がかかることが課題視されている、医師による患者遺伝子変異情報からの治療選択作業を支援することで、人々のウェルビーイングに貢献していきたいという想いから、私自身が専門とする自然言語処理技術を含む、様々なAI技術を研究グループで開発してきました。

さらに私たちは、開発した技術の社会実装には、より医療の現場に近い機関と研究を進めることが必須と考え、国内のがん医療をリードし、病院と共同して世界トップクラスのがん研究を推進する愛知県がんセンターとの共同研究を2019年に立ち上げました。以来、愛知県がんセンターとは、AIの実用化に向けた共同研究を推進してきました。

――開発された「がん患者ごとの遺伝子変異に基づき治療薬の選択をAIにより支援するシステム」では、どのようなことが実現できるのでしょうか?

富士: 患者のがん種や遺伝子変異などの検査データを入力することで、治療薬の選択を支援します。このシステムでは、外部の複数データベース内で様々な表現やルールによって管理されたがん種および遺伝子変異に対応した薬剤情報やその治療効果を評価する実験データなどを、愛知県がんセンターの治療薬選択のノウハウと、富士通の「データ統合AI技術」を用いて、共通の表現やデータ形式に整理して、ナレッジグラフに成形して提示することができます。ナレッジグラフとは、様々な情報を体系的に連結し、グラフ構造で表した知識のネットワークのことで、情報の関連性の把握を容易にします。これによって、治療薬の中から、患者ごとに異なるがん種や多様な遺伝子変異に対して効果が期待できる薬剤の絞り込みが可能となります。

また、富士通の「文献情報抽出AI技術」を活かしたシステムを組み合わせることで、医師が治療薬として検討中の薬剤の効果について、過去の120万件を超える大量の医学文献から該当部分を瞬時に参照することができ、根拠となるデータの探索などの時間を大幅に短縮できます。これにより、医師は様々なエビデンスを集約して検討することが可能になり、薬剤選択の妥当性の確認や作業の効率化が期待できます。

医師に優しいシステムを目指して

――2つの技術を組み合わせることで、医師の業務を支援できるということですね。開発にあたってどのようなことを重視されましたか?

富士: 私たちの研究グループでは、医師の方々にとって、医療現場の一連の流れの中で、使いやすいシステムであることを意識して改良を重ねました。これは、広くシステムを展開していくには、医師の心をアシストするような使い勝手の良いインターフェースに落とし込むことが重要であり、ひいては、がんゲノム医療を真に向上させていくことに繋がっていくという、井本氏から頂いたアドバイスによるところが大きいです。

――実際に愛知県がんセンターでの実証実験でシステムを活用したところ、8種の遺伝子変異に対して治療効果を期待できる薬剤候補を導き出せることが確認されたそうですね。井本氏は、このシステムの意義をどう実感されていますか?

井本氏: 医療の現場にとって、とても意義のあるものだと感じています。医師は、より短時間で候補治療薬の選択や効果の予測をできるようになります。医師にとって優しいシステムだということは、患者さんに素早く情報を還元できるということでもあります。早くて正確な意思決定が可能になれば、患者さんはより効果の期待できる治療薬の選択や、逆に効果を期待できない治療薬の選別などが可能になることが期待できます。また、高度ながんゲノム医療の知識を持つ専門医でなくても、ゲノムの情報から治療薬の選択や新たな治療法の提案ができる環境を整える上で、このシステムへの期待値は大きいです。

今後の展開として、既存のデータベースや論文情報だけでなく、特徴ある独自の情報も参照情報に加えていきたいと考えています。愛知県がんセンターでは、がん組織や細胞を培養したモデルやがん細胞の中の一部の遺伝子を改変したモデルを作製しており、治療薬の効果をこれらの実験モデルで確かめることができます。また、薬剤耐性の研究も行われており、どのような遺伝子の変化が薬剤耐性に関係するかという点でも最新の情報を集めています。これらの実装により、さらにシステムを進化させていくことができると期待しています。

ウェルビーイングの実現が共同研究の原動力に

――今後、がんゲノム医療の進化に向けて、どのようなことに挑戦されたいとお考えでしょうか?

井本氏: 愛知県がんセンターは、研究所と病院とが一体となった総合がんセンターとして、今後も一人ひとりの患者さんとご家族に、予防から診断、治療、治療後まで全てのライフステージに応じた最高のがん医療を届けることを目指しています。病院を通じて、ゲノム情報に基づく超早期診断、薬物や免疫治療、予防などの研究所の成果を還元し、日本と世界のがん医療の進化に貢献していきたいと考えています。

その中で、AI技術を効果的に活用していくことで、がん医療の平均的な質を進化させるだけでなく、一人ひとりに最適ながん医療の個別化の実現につながっていくと考えています。また、ゲノム医療には、富士さんが専門としている要素技術によって解決できる分野がまだまだ多く存在すると思っているので、ゲノム医療全体に波及効果をもたらすような技術革新を積極的に取り入れてきたいですね。

富士: 私の専門分野であるAI技術を医療という社会貢献度の高い分野に活かし、患者さんの治療に役立てていきたいという想いがあります。研究者として、目の前の技術開発に邁進しながらも、その先の未来に何を達成しようとしているのかをイメージすることが大切だと考えており、人々が健康で豊かに楽しく暮らせる社会の実現こそ、テクノロジーが本領を発揮すべきところだと思っています。

ストレスなく効率的に行える情報統合環境の整備とシステムの本格導入によって、ひとりでも多くの方々のウェルビーイング実現に貢献していきたいと思います。

愛知県がんセンター研究所 所長
井本逸勢(いもと・いっせい)

1987年京都府立医科大学卒業。7年間消化器内科医として臨床と研究に従事した後、米国Mayo Clinic留学を機にヒトゲノム解析研究を開始。1999年より東京医科歯科大学、2010年より徳島大学(教授)で研究を続け、2018年からは愛知県がんセンターでがんゲノム医療に参画。2021年より現職。博士(医学)。日本人類遺伝学会、日本遺伝性腫瘍学会理事。

富士通 コンピューティング研究所 プロジェクトマネージャー
富士秀(ふじ・まさる)

富士通入社後、自然言語処理、とりわけ翻訳システムATLASなど機械翻訳に関する研究開発に取り組む。2014年より国立研究開発法人情報通信研究機構に出向。2017年より富士通研究所人工知能研究所にてゲノム医療AIの研究開発をスタート。AMED臨床ゲノム情報統合データベース整備事業に参画。2022年よりコンピューティング研究所にて大規模ゲノム解析の研究に従事。博士(工学)(自然言語処理学)。言語処理学会理事。

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