近年、社会問題となっている「カスタマーハラスメント」(以下、カスハラ)。
深刻な被害が増え続ける中、2024年6月には厚生労働省が法改正の検討を開始するなど、国全体で従業員を守るための取り組みが進行しています。
企業には従業員を守る義務があり、カスハラに対して毅然とした対応を行うための教育が求められていますが、専門的な知識が必要となるため非常に難易度が高く、対応しきれていないのが現実です。
この問題に対して、東洋大学と富士通はAIを活用した「カスタマーハラスメント体験AIツール」の開発を進めています。この取り組みと、目指す未来について、東洋大学社会学部長 桐生 正幸 教授、富士通 紺野 剛史に聞きました。
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社会問題化するカスタマーハラスメント
近年、社会問題となっているカスハラ。顧客の理不尽な要求や攻撃的な言動によって、企業活動が妨げられたり、従業員がうつや退職に追い込まれたりといったニュースが、連日のように飛び交っています。
なぜ今、カスハラが注目されるのでしょうか。元山形県警科学捜査研究所(科捜研)研究員で、犯罪心理学の観点からカスハラを分析する桐生 正幸 教授が実施した調査によると、販売・レジ業務・クレーム対応を行う従業員の約75%もの人がカスタマーハラスメントの被害に遭った経験を持つことがわかっています。桐生教授は、その背景をこう語ります。
桐生 氏:従来、企業はクレームを「企業の財産」と捉え、顧客の要望に応えることで、サービスや商品の改善と企業の発展につなげてきました。しかし2000年代以降、時代と共にクレームの形態も変化し、金銭や謝罪を求めるのではなく、ただ怒りをぶつけるような「悪質なクレーム」が増加しました。クレーム対応の窓口となる従業員は疲弊し、対応できない従業員は辞めてしまい、新たな従業員を投入するという悪循環も生まれています。
このような状況を受けて、労働組合同盟のUAゼンセンは2017年に初めて悪質クレームに焦点を当てた調査を行いました。(※1)悪質なクレームを受けた従業員のストレスの実態や深刻な被害状況がデータとして顕在化され、国や企業がカスハラ対策へ真剣に取り組む契機のひとつになりました。
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※1
――カスハラは「悪質クレーム」としてこれまでも存在していたのですね。カスハラには、どのような定義があるのでしょうか。
桐生 氏:定義は、非常にあいまいです。私は、「要求内容」と「態度・言動」の程度によって、グラデーションが存在すると考えています。
意見、要望、クレーム、苦情、これらはすべて「要求」です。その要求内容が一般的な常識に基づいているか、あるいは過度で悪意があるかによって分けることができます。さらにその要求を述べるときの態度や言動が友好的・理性的・抑制的なものなのか、あるいは権威的・感情的・攻撃的・反社会的なものなのかも重要となります。
暴行や脅迫、暴力行為といった、明らかに法律で対応できる行為はカスハラではなく、れっきとした犯罪行為です。カスハラは、嫌がらせを含む一方、要求内容が一般的な常識に基づいていたり、抑制的に行われている場合には、加害者本人に全く自覚がないケースもあります。
さらに業種や業態によっても基準が異なるなど、カスハラを一律に定義するのは困難です。
カスハラの被害を放置することは、企業の大きな損失に繋がります。2024年2月に東京都が防止条例の制定に向け検討を開始、2024年6月に厚生労働省が労働施策総合推進法改正の検討を開始するなど、国をあげてカスハラの定義と法整備を行う検討に入りました。
桐生 氏:現行法でカスハラの定義がされていない現状では、企業は少なくとも「要求内容」「態度・言動」といった要素を考慮した上で定義を行い、顧客に対して自社の姿勢を明確に示すことで従業員を守ることが重要だと考えます。
予測不能なカスハラの現場を、AIでリアルに再現
企業には、従業員を守る義務があります。カスハラに対しても、より具体的な教育や対策が必要となるでしょう。この課題に対応するため、東洋大学と富士通は「カスタマーハラスメント体験AIツール」の開発を進めています。
――どのようなきっかけで、今回の取り組みが実現したのでしょうか。
紺野:2022年、AIと犯罪心理学を活用し特殊詐欺を未然に防ぐ日本初の共同研究を尼崎市で実施しました。
共に研究を行っていた桐生先生から、特殊詐欺に関する高齢者向けの訓練ツールの技術をカスハラの訓練にも応用できるのではないかと提案を受け、2023年末から本格的に開発へ取り組んでいます。
――なぜ、AIによる訓練が必要なのでしょうか。人対人で訓練を行うことはできないのでしょうか。
桐生 氏:カスハラ対策の訓練を行うには、クレーム対応において豊富な経験を持つベテランスタッフの存在が重要であり、さらにそのベテランスタッフが適切な研修プログラムを受講済みであることが理想的です。しかし実際は、すべての企業にそういったスタッフが存在するわけではありません。特に近年では、クレームに接する機会の多いコールセンターは外部に委託するケースが増えており、チャットボットの利用も拡大しているなど、各企業が持つクレーム対応のノウハウは少なくなりつつあります。
外部の研修機関を利用することでノウハウを取り入れるという方法もありますが、既存の研修プログラムではカスハラに対応しきれません。例えば、「カスハラへの対応策としてアンガーマネジメントを身に付けましょう」というアプローチは一見正しいように思えますが、カスハラは対人関係の齟齬から生まれるものであり、単に怒りを抑えるだけでは問題解決にはなりません。
カスハラに特化した研修プログラムについても、カスハラを専門的に研究している学者が少ない現状では、学術的根拠に裏付けされた信頼できるプログラムは非常に限られています。インターネット上にあるカスハラ事例を集めて既存の研修をカスタマイズしたような研修プログラムも少なくありません。
加えて、業種や業態による違いも考慮する必要があるなど、リアルな感覚でカスハラのトレーニングを行うことは、非常に難易度が高いのです。
紺野:このような現状から、桐生先生と共に「カスタマーハラスメント体験AIツール」を開発しました。
犯罪心理学の知見を活用し、カスハラに共通する会話のパターンを学習したAIによってカスハラの現場を再現しています。攻撃の仕方から声のトーンまでリアルに再現したAIトレーナーと対話することで、様々な業種や業態におけるカスハラの疑似体験ができます。
カスハラは、加害者の行動や言動を予測することが難しく、なおかつ日々新たな事例が更新される分野です。生成AIを活用することで、短期間で様々なシナリオを自動的に更新する仕組みを実現しました。これにより、最新のカスハラ事例を踏まえながら、多様なシナリオを作り出すことが可能になっています。
紺野:重要なのは、スコアリングとフィードバックです。生成AIの導入により、様々な分野で会話形式の訓練ツールが提案されてきましたが、改善点をユーザーにフィードバックし行動変容を促すことは困難でした。カスハラに対して「毅然とした態度で対応できているか」「適切な距離を保てているか」といった点を評価し、さらに採点理由や改善すべき点も提示することで、次のアクションに役立てることができます。企業側で採点基準を決めていただくこともできるため、自社のポリシーに合った教育が可能です。
桐生 氏:カスハラは、注意喚起や個人のスキルアップだけで防げるものではありません。企業はどのようにカスハラに対応していくかを明確にし、組織全体で個人を守らなければならない段階に来ています。「カスタマーハラスメント体験AIツール」により、カスハラに対する従業員一人ひとりのレベルを把握することで、組織として取り組むべき指針を検討するための材料として活かしていただけると考えています。
個人のスキルアップで終わらせない。心の状態を見える化し、従業員を守る指標に
「カスタマーハラスメント体験AIツール」は、カスハラの現場で役立てていただくことはもとより、「ミリ波見守りソリューション」との連携による展開も視野に入れております。ミリ波レーダを用いて、訓練中のバイタル情報を取得できるというのも大きな特徴のひとつです。
――「ミリ波見守りソリューション」については、以前医療現場における見守り技術としてフジトラニュースでも取材させていただきました。カスハラの訓練に、なぜバイタル情報が必要なのでしょうか。
紺野:ミリ波レーダを使用することで、心拍数や呼吸数といった情報を取得できます。バイタル情報と会話の内容から総合的なスコアを判定することで、カスハラへの対応が適切であるかを判断できます。
桐生 氏:このアプローチの素晴らしい点は、単なる会話内容や話し方を分析するだけでなく、心の状態まで見える化できるということです。
同じことを言われても、人によってストレスの感じ方は異なりますよね。単なる対話の訓練であれば個人のスキルアップに留まってしまいますが、ストレスフルな状態がどの程度続いたかという情報を得られれば、組織はどのようにして従業員を守るべきなのかを検討する際の指標になり得ます。
ストレスは声のトーンや反応速度にも表れますが、癖や個人差があります。バイタル情報から読み解くことで、より正確に心の状態を知ることができます。
社会課題に寄り添う「人に優しい技術」を、世の中の当たり前にしたい
――今後の展開について教えてください。
紺野:接客業以外にも、教育やメンタルヘルス、医療など、対面で人を助ける専門性の高い分野でも活用できると考えています。
桐生先生と連携しながら適切な場所で実証実験を進め、2025年のリリースを目指しています。
桐生 氏:元々特殊詐欺を未然に防ぐために開発していた技術をカスハラへ応用したように、さらなる応用も考えられます。
例えば、企業内でのセクシャルハラスメント(セクハラ)チェックにも応用できるのではないでしょうか。セクハラほど定義が難しいものはありません。ツールによる評価を見て、自分がどれだけセクハラに値する発言をしているかを認識していただくといった活用方法も考えられますね。
――この技術によって、実現したい未来をお聞かせください。
桐生 氏:私たちは現在、AIをはじめとしたテクノロジーと人文社会系の質的な要素を組み合わせたコンバージングテクノロジーによって実社会の問題解決を図り、その結果を現場にフィードバックするという研究に取り組んでいます。
世の中に新しい価値が生まれるきっかけはいつも、人と人との出会いです。特に若い世代の人々が、社会に対して課題に感じることや気付きを共有し、新しい技術や知見を持つ企業と共に解決策を見つけることが重要だと考えています。将来への希望がないと感じる若い世代の方も多いですが、コンバージングテクノロジーによって生み出された技術で、新たな希望を見つける手助けができると考えています。今回の「カスタマーハラスメント体験AIツール」も、その一例です。
富士通が社会課題に寄り添った「人に優しい技術」を開発することで、人々が幸せを感じられるような価値を世の中に提供できると信じています。
紺野:富士通のパーパスは「イノベーションによって社会に信頼をもたらし、世界をより持続可能にしていく」です。これを支えるのが、富士通研究所の技術だと考えています。
カスハラの分野においては、法整備をはじめこれからも大きな動きがあることが予想されますが、そういった社会の変化に対応できるよう、最新技術の研究開発を続けてまいります。
人々に寄り添い開発した技術を、世の中の「当たり前」にすることが、私たちの目指す未来です。
※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。