音のTEMPO
アンダンテ。歩くくらいの速さで
作曲家 阿部海太郎

音楽とは例え人間の生存に、生命機能を維持するという意味において、必要不可欠ではなかったとしても、人の営みにおいて、その役割はきちんとある。お祝いの言葉や感謝の言葉を歌に乗せて誕生日を祝い、思い出の音楽で故人を偲ぶように、役割があるのが音楽です。ところがコロナ禍に見舞われた今、その音楽の本質が強く揺らいでいきました。

僕がまず考えさせられたのは、人類にとってコロナウイルスとは、一時的かつ偶発的なものなのかどうか?ということでした。一時的なものなのであれば、この事態はやがておさまってゆき、「大変な時期だったね」と、いつの日か振り返る日がくることでしょう。でもそうではなく、この事態もまた人類にとっての本質的な一部なのだとしたら? そう捉えたときに、音と音を合わせる。人が集うという音楽の営みの本質もまた、すごく問われていると感じたのです。

問われながら改めてリズムやテンポについて思い巡らせてみると、リズムやテンポとは音楽だけでなく人間の身体や自然のなかにも存在していると考えています。その上で音楽を聴く気持ちよさというのはなんだろう?と考えたときにひとつ言えることは規則正しく刻まれる、そのテンポに身を委ねることにあると思っています。呼吸や脈拍など、人間が持つテンポ自体が本来不規則なものだから、第一に安心感を覚えるんです。

では完璧なテンポを刻んでいればその音楽はおもしろいのか?と言われると、そうとは限らないんですよね。例えばクラシック音楽の演奏では、テンポ自体が音楽のなかで揺らいでいくことにおもしろみが宿ります。つまり、拍の刻み方が変わっていくことによって、テンポが揺らいでいく。ワン、トゥー、スリー。ワン、トゥー、スリー、ワン、トゥー、スリー。その拍をどう感じていくか?これは演奏家の意思が働いてきますし、そこに個性や表現が加わることで、「音楽的なテンポ」が立ち上がってくると思います。このように僕たちはテンポの規則性による安心感と同時に個性や表現としてのテンポを、音楽のなかに求めているんだろうなと、そんな風に理解しています。

拍やテンポというものは作曲家よりも演奏家の領分です。コンサートで自分が演奏したものを録音で聴いてみると、理想よりも速いテンポで弾いていたということが、結構あるんです。要するに演奏する側として自分自身が満足しているテンポが、聴く側にとっても同じく満足するものかどうか?と問われると、必ずしもそうではないわけです。

音楽を通してその時間を伝えていく。優れた演奏家は、それを徹底的に客観化しながら、再現されていく時間や増減していく時間というものを演出できるもの。演奏家にはそういう能力がつねに問われていると思います。

阿部さんが普段愛用しているメトロノーム。「電子式のメトロノームに機能では劣るけれど、この振り子の音は多くの人に愛されています」。

音楽の一番の理解者は、作り手とは限らない

歴史を振り返ると、捉えられない時間を記録していくことに音楽家たちは努力してきました。口頭伝承による楽譜のない音楽も山ほどありますが、音楽は楽譜によってある程度書き起こすことができます。ところが、いわゆる民族音楽と呼ばれる音楽は拍自体がかなり伸縮自在なので、それを厳密に楽譜に起こそうとすると、ものすごく大変です。民謡の節回しを想像してもわかるように、個人のリズム感に依存していることが多いので、楽譜の書き方が難しくなってくるんです。つまり楽譜とは正確なようでいて、実はそこまで厳密には時間を記録することができません。逆説的に、その楽譜の在り方自体におもしろさがあります。

そもそも技術や造形的なものがそこに存在していれば事実として「作品はこれだ」と言えますが、音楽の場合は作品の概念自体が曖昧で、楽譜自体が決して作品ではなく、演奏家の肉体によって演奏されて初めてかたちになります。そうやって突き詰めていくと、作曲とはいったい何なのか、わからなくなるときがあるんです。「自分が作っているこの曲のアイデンティティとはなんだろう?」と。

ニューヨーク滞在中に訪れたという、カフェ、レッジョのショップカード。「自分史上、最高に心地よい時間が流れていた場所です」。

一般的に、その音楽の一番の理解者は作り手本人だと思われていますが、そうではないことも。作曲家のイゴール・ストラヴィンスキーの音楽はリズムが複雑で、テンポ表記も詳しく本人が書き込んでいるんですが、自身が指揮した演奏はあまり評判が良くないんです(笑)。そういう事例はたくさんあります。これは音楽に限らずパフォーミングアーツ全般に言えることだと思いますが、その作者と演じる側の関係性によって作品が変容していくこと。そこに時間芸術の醍醐味と本質とがあります。「演奏」を英語でinterpretation(解釈)と言うように、音楽はインタラクティヴに形成されていきます。それが時間芸術においては一番豊かな表現になる。このことを強く意識しながら作曲しています。楽譜を書くときにテンポや音の強弱についても参考になる一例を書くようにはしますが、厳密には書きすぎないようにしているんです。演奏家の領分として、解釈の可能性を残します。逆を言うと、解釈したい、演奏したいと思ってもらえるような旋律であるとか、音楽的な楽しさをどのように含んだ音楽を作っていけるだろうか?その点を自分に問うています。

クラシック音楽は現代性を獲得している

現代において音楽は録音して残すことが主流になっていて、僕も録音の楽しさやその役割の大切さもよく知っていますが、音楽が内包している時間がある人の手によって動き出し、息が吹きこまれていくことに、ある種の夢を抱いているので、楽譜という形態が心地よいんです。

もちろん、楽譜に残すのは、そこに鳴り響いている、あるいは生み出すことができる音の世界というか、その時間を記録したいという欲求も第一にありますが、自分が作った時間が誰かの手によって生まれ変わる、再生されるということが、音楽の楽しさでもあります。決して上手に演奏する必要はないんです。

一般的にイメージする楽譜のシステムは、17世紀初頭に始まったバロック音楽の時代から18世紀に始まった古典派音楽の時代のあいだに確立されていきました。またメトロノームはベートーヴェンの時代に生まれ、彼は自分の交響曲のテンポを新聞紙上に掲載しました。

「ベートーヴェンの楽譜には、シェイクスピアの戯曲のような詩情と雑味とが混在していて、演奏家を強く刺激します」。

例えば交響曲第5番ハ短調「運命」。ベートーヴェンは「2分音符=108」で演奏して欲しいと自分でリクエストをしています。実際にはこの彼の指示を杓子定規に守る指揮者というのはいなかったわけですが、それでもベートーヴェンがテンポを指示した理由。それは彼が貴族だけではなく、市民層に向けた音楽を目指していたからです。

ベートーヴェンの前と後で、音楽は違うものになったといわれています。ベートーヴェン前の音楽家たちといえば、主に宮廷や貴族に仕えていて、命ぜられるがままに曲を作らなければならない、雇われの身。その作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどでした。ベートーヴェンもまた、若い頃は宮廷に仕えた音楽家でしたが、やがて彼は自由に曲を作り、自分の音楽を大衆に向けて届けることを目指します。

大衆にひらけばひらくほど、誰が演奏するかわからないし、聴衆の理解もすぐには得られないかもしれない。そこで自分の理想のテンポを書き記す必要があったのだと思います。

こうしてベートーヴェン後の音楽がパブリックなものになる過程において、楽譜の書き方は厳密になっていきます。20世紀以降の楽譜、いわゆる現代音楽の楽譜はここからここまでは何秒とか、実時間で指定することもしばしばです。

映画『ペンギン・ハイウェイ』のフィルムスコア。音楽録音に向けての指揮者との打ち合わせはほとんどテンポについてだったという。

そうすると、例えばアンダンテ(Andante)とは、テンポの表記で「歩くくらいの速さで」という意味ですが、こんな曖昧な表記はもはやできないですよね(笑)。でも僕自身はこのアンダンテと楽譜に書くことができた古い時代のおおらかさ、楽譜の在り方というのが、先ほどお話したように音楽における解釈の余地を生んで、本当の意味で聴衆に届くのではないかなと思います。

現代では古典と呼ばれているクラシック音楽ですが、ベートーヴェンやモーツァルト、チャイコフスキーなど、いまだに彼らが作った音楽が演奏され続けているというのは、ある意味でクラシック音楽が現代性を獲得できているということでもあります。そしてクラシック音楽の、作曲する人と演奏をする人が別であるという分業制によるおもしろさ、そこで生まれるダイナミズムのようなものもまた、音楽のひとつの力。それが現代の、正確性を追求する録音全盛の時代にあって、違った角度から音楽の価値、可能性を示せるのではないか。作曲家として、それを探求していきたいと思います。

[構成・文/水島七恵 写真/高野ユリカ

阿部海太郎 ABE Umitaro

作曲家/クラシック音楽など伝統的な器楽の様式に着目しながら、楽器の今日的な表現を追求する。すぐれた美的感覚と知性から生まれる音楽表現が多方面で評価され、舞台、テレビ番組、映画、様々なクリエイターとの作品制作など幅広い分野で作曲活動を行っている。

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