人生の虚と実
心身一如。人生の全体性を取り戻す
医師 稲葉俊郎

僕は普段、心臓を専門とする医師として医療現場で働いています。医療の目的はさまざまに複雑化しているようですが、本来的には困っている人の手助けをすることが基本だと思っています。その中で、多くの患者さんが抱えている問題は、〝頭〟と、〝体や心〟のねじれ関係から来るものだと思うことが多いです。

「虚と実」というテーマを聞いて頭に浮かんだのは、頭を「虚」、体を「実」とした人間のメカニズムのことでした。体をリアルな「実」だとすると、多くの困り事は脳内で作り上げた「虚」の世界に振り回されていることが多いのです。虚と実の差異が拡大するほどに体や心が病気になり、それにより復元力が働きます。体がタフな人は人間関係のトラブルとして顕在化してきます。ただ、そのトラブルの実体は、自身の頭と体の関係の歩調があっていないことが多く、医師の仕事としては、患者さんの絡まった糸をほぐすような仕事をしている気がします。

医療には、急性期と慢性期があります。例えば心臓のトラブルを抱えて病院に来た患者さんには、まず物理的な心臓の治療をします。それこそ、ブッダが言うところの「毒矢が刺さっているならば、まず毒矢を抜きなさい」という治療です。頭の理屈よりも、まず体や命を助けることが、病院や西洋医学に求められているミッションです。でも、その対応だけでは本質的な問題が解決しない面もあるわけです。「そもそも、なぜ病気になってしまったのか」に答えていかなければ、本質的な解決にはつながらず、それも含めて医療のプロの仕事だと思っています。

例えば木が倒れた時に、最後に押した人のせいにしてしまいやすいです。あなたが押したせいで木が倒れたと。ただ、よく考えると、木が倒れるためには、根を張った土壌、枝や幹を伸ばした天候、そもそも植えた環境が適していなかったかもしれません。あるいは倒れる直前まで手を加えた人がいたのかもしれません。木が倒れたプロセスや背景を考えることが、腑に落ちる解決につながります。全体像の把握に時間はかかりますが、本来的にその人の体や命が向かいたい方向に歩むことにつながるので、実は解決はそれほど難しくないんです。体や命はどこに向かいたいのか、頭がどこで妨害しているのか、一つずつ検証して、その人にしかない、オリジナルな人生の全体性を取り戻すわけです。

人間が生まれて、生きて、死ぬ。このサイクルが、人生の全体性です。すべてはこの全体の一場面です。大きく見ると生命の流れそのものです。失敗のようでも成功のようでも、あらゆる〝今〟の積み重ねは、このサイクルの一コマです。常に人生の全体性に立ち返りながら、では、その人はどういう人生を送りたいのか。それを真剣に考えることが、人生という作品だと思います。

例えば40歳の人が生まれてからこれまでの40年を振り返ると、今までの人生は脈絡がなくバラバラな気がするかもしれません。ただ、自分のすべてを冷静に検証し、再接続していく勇気があれば、次の40年の向かう先が浮かび上がってきます。カウンセリングにおいても、そうした心のプロセスの中で治癒が起きるわけですが、その時に一番ブレーキをかけているのも、やはり頭の世界です。頭が強固に作り上げた理屈や概念や価値観。理論武装された虚像です。頭は合理化に長けています。自分の頭を説得し納得させる理屈作りに長けているのが、その人自身の頭なんです。自分自身が自分の頭に騙されてしまうのです。

体という実体があって、
その働きを心と呼ぶことができる

東洋医学やインド哲学、ヨーガなど、東洋には、身体観に関する長い歴史と叡智があります。東洋の先人たちが口を同じくして言っているのが「心身一如」です。体と心は同じもので、違う顕れに過ぎないと。どうやら東洋の賢人が瞑想して体を探求した果てに理解したことは、体そのものが心なのだということです。

日本の伝統芸能でも同じです。能楽、茶道、華道も、みな同じ身体観を持っています。安田登さんという能楽師は、「心の場所は、時代に応じて移動している」と書いていらっしゃいました。古代文字からの類推によると、心は性器にあると思われていた時代があった。自分の頭で制御できない力が働くからですよね。日本のの世界では心は腹にあるという表現が多いです。腹に収める、腹が立つ、という表現が「腑に落ちる」わけです。心はお腹から心臓へ、そして現代は脳に心がうつった時代です。しかし、脳と心はイコールではありません。脳は体の一部です。体の探求者たちによる東洋の身体観に敬意を向けると、脳のある頭の先から足先まで、内臓も含めた体すべての働きが「心」なのです。僕は医療者としてもその叡智を尊重したいのです。心身一如の状態こそが、その人固有の全体性がある状態なのかもしれません。

たとえですが、心臓という物理的な実体はありますが、「循環」は物体ではありません。心臓が持つ働き、機能が「循環」です。肺は実体がありますが、「呼吸」という働きには実体がありません。同じように、体という実体に対する、体の働きを「心」と呼んでいるのではないでしょうか。そして心身の働きを「命」と呼んでいるのかもしれません。名前が指し示すものが虚なのか実なのかに注意が必要ですが、虚実があわさって一つのものです。さらに言えば、地球上にいるあらゆる生きもの、その全体の流れが「命」という概念であるとも思っています。

森や風や水は外なる自然ですが、体と心は内なる自然です。外界で見ているような風景が、体内にも広がっているわけです。脳が作り出す概念やフィクションが強すぎて、自然との関係性を壁で分断してしまうと、内なる自然が荒れてきます。窓を開けて風通しを良くして、手入れやケアを怠らないことが必要だと思うんです。

未来と過去がぶつかったところが
「今」になる

社会現象として不思議な符号だと思っていますが、ウイルスは人間の10のマイナス7乗ぐらいのサイズなんです。反対に、人間の10の7乗ぐらいの大きさのものは何かと考えると、ちょうど地球くらいのサイズになるんです。ウイルスが人間に感染して人間が困っている状態は、人間が地球に感染して地球が困っている状態とパラレルなサイズ感なんですね。ウイルスがイメージできるかどうかは、地球をイメージできるかにかかっています。2030年に国連によるSDGs(持続可能な開発目標)の達成が設定されていることと、同じ切実さと想像力を持って向き合っていかなければ、ミクロとマクロが同時に何か致命的な破壊ポイントを越えてしまうかもしれません。自然治癒力が働く範囲を逸脱してしまうように。つまり地球規模の問題も〝我がこと〟として考えなければ、ウイルスの解決はないと思うんです。

では人類がどう生きるべきか。その指標は生命に共通の「いのち」ではないでしょうか。奇しくも2025年の大阪万博のテーマは「いのち」です。かつて1970年の大阪万博で岡本太郎は、「明るい未来」という共同幻想に対して、人類の無意識へ働きかける警鐘も含めて『太陽の塔』を作りました。例えば、100年先の未来を考えるためには、同じ振幅の100年前の過去を知り、未来と過去とがぶつかった「今」という感覚で物事を捉えることを伝えているように思うのです。だからこそ太陽の塔には、前だけではなく後ろにも顔があります。人間は、目鼻口が顔の前についているので、意識が前に向かいやすいのです。人が持つ未来のイメージは、ある意味では「虚」の影なのかもしれません。

自分が抱く未来を自分の過去とぶつけた火花のようなイメージで現在を捉えなおしてみる。過去・未来・現在の全体で人生を紡ぎなおしてみる。心身の不調や人間関係のトラブルは、人生全体を補正する復元力としても起こります。困っている時には視野が狭くなり、目の前しか見えなくなるものです。今この瞬間の苦しみから逃れるリセットボタンとして自死を選ぶことが増えている現代の中でも、この40年を生きてきたならば、その過去こそが必ず次の40年という未来を創造してくれると信じてほしいのです。

僕自身が大切にしている過去は、病弱で学校も行けずに生死の境をさまよっていた幼少期の孤独な体験です。この世から一度はじき出され、いろいろな偶然の結果としてこの世に戻ってきた感覚がいまだに残っています。だからこそ、死という場所からの視点を大切にしながら、生と死を一体化させて自分の人生の全体像を捉えています。

どれほど辛い境遇を生きてきた人でも、今、あなたは生きているじゃないですか。すでにいろんなものを乗り越えてきた証です。必ず、未来は創造的に解決できます。足元だけではなく遠い山の頂上を見てほしい、時には宇宙の果てまでも。自分は一人の医療者として、人生という作品の創造活動にこそ、寄り添いたいと思っています。

[構成・文/村岡俊也 絵/中島あかね

稲葉俊郎 INABA Toshiro

医師/軽井沢病院 副院長・総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督)。著書に『いのちを呼びさますもの』『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ)など。

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