塩梅 コラム
ツブの椅子、グールドの椅子
穂村弘

塩梅という言葉は懐かしい。昭和の頃、お年寄りたちが「ああ、いい塩梅だ」と云っていたのを思い出す。しかし、外から見ているだけでは、どこがどういいのかは、まったくわからない。本人が満足なら、まあ、いいや、という感じである。

昔、会社で残業をしていた時のこと。他のフロアから、同期のハセタくんが遊びにきた。そして、何気なく私の前にあった椅子に腰を降ろそうとして叫んだ。

「わ! 気持ち悪い。これ、ツブの椅子だ!」

その通り。そこはやはり同期の一人であるツブラヤさんの席だった。見た目上は他の椅子とまったく同じ。ならば何故、ハセタくんは座っただけでわかったのか。座面の位置が異様に高く調整されていたのだ。

ツブラヤさんは小柄な女性である。にも拘わらず、座面を高く上げて座るのが好みらしかった。同期は皆そのことを知っていた。彼女の椅子は「ツブの椅子」と呼ばれて、怖れられていた。私も座ったことがあるが、不安定で実に落ちつかない。同じ人間でありながら、座面の好みにこれほどの差があることが不思議だった。

でも、その理由をツブラヤさんに尋ねても無駄だった。「えー、だって、ちょうどいいじゃん」と云われてしまう。そう、彼女にとっては、これこそがちょうどいい塩梅なのだ。その件について、やはり同期で音楽好きのトモヤくんは「『グールドの椅子』の例もあるよ」と、なにやら良すぎる感じのコメントをした。確かに、伝説のピアニストであるグレン・グールドの演奏シーンを見ると、あまりの椅子の低さと、そこからくる姿勢の悪さにびっくりさせられる。あの体勢で、よくあれほどのプレイができたものだ。しかも、独特の唸り声。近年のCDなどには「グールド自身の歌声など一部ノイズがございます。ご了承ください」という注記があるらしい。「ノイズ」って……。でも、他人には低すぎる椅子も、悪い姿勢も、奇妙な唸り声も、そのすべてが天才グールドにとっては、ちょうどいい塩梅だったのだろう。

塩梅とは完全な主観であることを知った。塩梅という言葉をバランスやコンディションとイコールで結ぶことは難しい。それは定量化や客観化することはできないのだ。だからこそ、外からは伺いしれない他者にとってのいい塩梅が、何かの拍子に可視化されると、驚きながら凝視してしまう。

もしも、ツブラヤさんが退職したら、ツブの椅子が会社から消える。後には似たような高さの椅子だけが残る。グレン・グールドに憧れて、低すぎる椅子を真似てみても、同じ演奏は誰にもできない。一人の人間とは分類や分析を超えた命の塊であるらしい。

余談だが、前述のツブラヤさんとハセタくんは数年後に結婚した。私はちょっと驚いて、なんとなく嬉しい気持ちになった。今では二人の子どもたちも大きくなっていると思う。彼らはどんな椅子を好むのだろう。

[絵/牧野伊三夫]

穂村弘 HOMURA Hiroshi

歌人/短歌のほかに、エッセイ、評論、絵本、翻訳などを手掛ける。著書に『世界音痴』『本当はちがうんだ日記』『にょっ記』他。伊藤整文学賞、講談社エッセイ賞、若山牧水賞などを受賞。近刊に『シンジケート[新装版]』がある。

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