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物価はなぜ上がらないのか(3)-持続的な物価上昇に向けての政策対応-

2016年9月16日(金曜日)

(はじめに)

本稿も、前回同様にこれまでの復習から話を始めよう。日本の賃金決定では、自動車、電機、資本財等の代表的な輸出企業を中心に構成される金属労協加盟組合(企業)における春闘の結果が、経済全体の「相場」として受け止められ、非製造業や中小企業まで含めて大きな影響を与えるという慣習が成立していた。このため、これら産業が強い国際競争力(≒価格決定力)を有していた時代には(概ね1980年代まで)、主力企業で毎年行われる賃上げが「ノルム」となって、必ずしも生産性向上が顕著でないサービス業の価格(クリーニング代、散髪代など)も毎年春に値上げが行われるのが当然とみなされていた。これが低位ながら安定した物価上昇の基本的な背景だったと考えられる(注1)。

しかし、主力企業(特に電機)が競争力を失い、新興国企業との価格競争に巻き込まれるようになると、毎年当然のようにベース・アップを行うことは難しくなり、非正規雇用などを使ってコスト・カットに注力するようになる。こうしてゼロ・ベアが当たり前(=ノルム)となると、毎年春のサービス価格の値上げも消えていった(注2)。これが年率僅か0.3%の緩やかながらしぶとい日本のデフレの実相であった。

このように考えれば、円安に伴う一時的な物価上昇ではなく、安定的で持続的な賃金・物価の上昇のためには、金融緩和だけでなく、企業の競争力そのものの再建が必要だということになる(注3)。それには、まさに現在進行中のイノベーションを日本企業が取り込むことによって、「新産業革命」を起こすことが求められる。また、そのためには「働き方改革」が不可欠となろう。これらは、いずれも政府が推進を図ろうとしている改革そのものだが、本稿の1.および2.では、この点に関する私見を述べる。

おそらく、こうした成長戦略や構造改革の着実な推進こそが2%の物価上昇目標実現のためにも「正攻法」だとは思うが、そのためには少なくとも数年単位の時間を要すると考えるのが常識だろう。逆に言えば、その前に外的なショック等で経済に大きな負の圧力が掛かっても、金融政策の発動余地はほとんどないことになってしまう。そうした事態を防ぐには、安倍政権がこれまでも試みてきた「逆所得政策」といった非正統的な手段に踏み込んでも、早期に2%目標を達成することが望ましいというのが、筆者の年来の主張である。3.では、8月に公表されたIMFの対日審査報告などをも踏まえつつ、この考え方について説明する。

1. 「新産業革命」の実現

(「新産業革命」とは何か)

近年、新しい産業革命を巡る議論が喧しさを増している。言うまでもなく、これは本シリーズ(物価はなぜ上がらないのか(2)-「日本的企業」とデフレマインド-)で述べた世界的なイノベーションの波を踏まえたものであり、今年夏に策定された政府の成長戦略=「日本再興戦略2016」の中では、「第4次産業革命」という名前で大きな柱に据えられている(注4)。ただ、筆者にはこの「第4次」という意味がよく理解できない。1つの解釈は、ドイツが官民挙げて推進しようとしているプロジェクトIndustrie4.0の和訳ということだろうが、世界全体で様々な形で進みつつあるイノベーションのうち、ドイツの戦略のみに日本政府が肩入れするのというのは解せない。おそらくは、より一般的に18世紀後半からの蒸気機関を代表とする第1次産業革命、19世紀末から20世紀初頭に起こった電気、内燃機関、上下水道などを代表とする第2次産業革命に対して、1980~90年代のICT革命を第3次産業革命、そして最近のAI、IoTなどの動きを第4次産業革命と呼んでいるのだろう。

ただ、マーケティング上の宣伝文句としてはともかく、正面から受け止めるには近年の技術進歩を過大評価するものと言わざるを得ない。実際、近年世界的に問題とされているのは「長期停滞(secular stagnation)」などと呼ばれる経済成長の鈍化であって、相次ぐ産業革命に伴う成長加速ではない。その背景にはサマーズらが主張する需要不足もあるかもしれないが、日本だけでなく欧米も含めた先進国全体で潜在成長率が低下している点は広く認識されている(注5)。米国における実証経済学の泰斗であるGordon[2012]などは、ICT革命も近年の新しいイノベーションも含めて、その影響力は第2次産業革命と比べれば圧倒的に小さいと評価し、技術進歩の鈍化が長期停滞を招いていると主張するほどだ。

筆者自身は、このゴードンの見方はやや悲観的に過ぎると感じている。ブリニョルフソン・マカフィー[2015]らが指摘するように、無料ないし著しい安価で提供される検索サービスやSNS、音楽、映像などの価値が既存のGDP統計にはほとんど反映されていないため、経済成長が過小評価されている可能性があるからだ。とはいえ、過去30~40年余りのうちに歴史的な「産業革命」が2度も起こったと考えるのは到底無理だろう。ここでは、ICT革命と現在進みつつあるイノベーションを併せて「新産業革命」と呼んでおきたい(そうすると、大体100年に一度メジャーな産業革命が起こっていることになる)。これらは基本的にデジタル技術を中核とするものであり、それがコンピュータの処理能力の急上昇とインターネットの普及によってビッグデータの利用や人工知能(AI)の発展につながっていったと考えることができる(注6)。

(日本企業にとってのチャンスと課題)

前回(物価はなぜ上がらないのか(2)-「日本的企業」とデフレマインド-)では、この新産業革命において日本企業が大きく立ち遅れていること、そのことが日本の企業や労働者の行動の消極化の一因となっている可能性を示唆した。したがって、能天気にイノベーション=チャンスと受け止めることはできないのだが、政府の成長戦略が強調するように、これ以上のジリ貧を避けるには何としてもこの機会を活かしていく必要がある。そうした観点から、日本企業にどのようなチャンスがあり、また課題があるのかを考えていこう。

まず第1に、前回は新産業革命の鍵となる概念として「オープン・イノベーション」を挙げたが、もう1つの重要な特徴として湯川[2015]らが強調する「ハードウェアとソフトウェアの融合」を指摘することができる。これは、IoTや自動運転技術、AIのロボットへの実装などを考えれば直ちに明らかだろう。実は、少し前までのデジタル化は、検索サービスやSNS、eコマースなどを通じて、ソフトウェアの中に大量のバーチャル・データを生み出してきた。これらのバーチャル・データの大部分が先頭を走る米国企業に占有されており、日本企業の巻き返しはほとんど不可能とみられる。しかし、今後は自動車の走行データ、工場の稼動データ、さらには個人の健康データなどのリアル・データが張り巡らされたセンサーの網を通じて集約される時代となれば、製造業などに強みを持つ日本企業が挽回を図る余地が出てくるだろう(だからこそ、日本ではとりわけIoTへの関心が高いのだと思われる)。

ただし、ここで注意すべきは、例えばグーグルなどが多額の資金を投入して製造業ベンチャーの買収を活発化させていることである(湯川[2015])。こうした動きが進展していけば、米国のソフトウェアの巨人と製造業ベンチャーが連携することで、日本メーカー外しが進むリスクがあるからだ。大量のリアル・データの源泉となり得る日本メーカーには、早期に連携を進めることで外すことのできないパートナーの地位を確保していくことが求められる(注7)。

第2に、前回も述べたように、医療・介護・健康は今後ビッグデータ、AI、ロボットなどの活躍が大いに期待される分野であり、課題先進国=日本はそこに極めて大きな市場を持つ。また、社会保障財政が抱える将来の困難や介護分野などの人手不足を考えると、新しいイノベーションを効率化・省人化につなげていくことが不可欠である。ただし、昨年5月の本欄(社会保障改革の核心(上)―家庭医の導入とICT化を柱とする医療改革―)でも述べたように、現時点では電子カルテの普及さえ十分に進んでいないのがこの国の実情である。また、医療のICT化の鍵と言われていたマイナンバーも直ちには医療目的に利用できないこととなっている。社会保障財政の改革と医療・介護分野の規制改革を並行して進めていく必要がある。

第3は、PepperやASIMOといった人型ロボットだけでなく、画像認識やセンサーといったAI、IoTの基礎技術に関しても高い技術力を有する日本企業が少なくないことである。確かに、これは新産業革命において日本企業が重要な役割を果たすための1つの条件となる。ただ、要素技術がどれだけ優れていても、システム(プラットフォーム)の中核を握らない限り確実に収益を上げることはできないということを、過去20年余り日本企業が学んできた点を忘れてはならない(注8)。本シリーズで使ってきた言葉を用いるなら、要素技術だけではpricing powerが得られないからである。

2. 「働き方改革」の推進

(「働き方改革」の重要性)

「働き方改革」は「新産業革命」と並んで安倍政権が最重要視する施策の1つだが、筆者も昨年8月の本欄(今こそ「日本的雇用」を変えよう(1)-人手不足時代と「日本的雇用」の桎梏-)でやや詳しく論じたように、これこそ日本社会にとって最も大切な改革だと考えている。働き方改革が必要となる最大の理由は、少子高齢化で人口が減っていく中で、私たちの生き方、とりわけ働き方が変わっていかざるを得ないことにある。生産年齢(15~64歳)人口の減少が続く一方、医療や介護に多くの人手を割く必要があることを思えば、男女、年齢の差を超えて、それこそ「一億総活躍」が求められる。しかし、「残業・転勤何でもあり」のメンバーシップ型雇用(基本的には専業主婦の存在を前提にした男性正社員の働き方)を変えない限り、女性や高齢者には対応のしようがないからだ(男性正社員であっても、今後介護負担を抱える者が増えていけば、従来のような働き方は続けられなくなる)。

それだけではない。希望する者がすべて正社員として受け容れられるならともかく、競争力を失った日本企業は非正規雇用の拡大という形のコスト・カットに走った。その結果、今の若者達の間では「長時間労働で異性と接する機会もない」正社員(彼/彼女らの労働時間は一段と長くなっている)と「将来が不安で結婚に踏み切れない」非正規雇用との二極化が進み、それがひいては晩婚・未婚化→少子化という悪循環を生んでいる(注9)。こうした不幸から逃れるには、生涯の雇用保証を会社に求める一方で、会社に無制限の人事権を与えるメンバーシップ型雇用を縮小して、ジョブ型雇用をデフォルトとする以外ないことは上記の拙稿で論じたとおりである。

筆者が働き方改革を必要だと考えるもう1つの理由は、「日本的雇用」の役割は終わったと思うからだ。これも拙稿ですでに論じたことだが、1950~60年代のキャッチアップの時代には、相対的に低学歴の若者を社内のOJTを通じて育成し、地道なカイゼンを積み上げることで競争力を高めていくという企業の戦略が日本経済の発展に大きく寄与した。しかし、キャッチアップが終わり、さらにグローバル化、ICT化の時代を迎えると、雇用面の制約から組織や戦略を迅速に変えられない日本企業は窮地に陥っていった(国内雇用を守るために、海外展開が遅れる。ICT機器を導入しても人員を減らせないため、ICT化自体が進まない。新しい成長分野で必要な人材を自前では育てられないetc.)。そして、最近になって改めて痛感したのが、企業の間に高い壁を作る「日本的雇用」こそがオープン・イノベーションを進めるうえで最大の障害になっているという点である。そう考えれば、「新産業革命」を推進するためにも、「働き方改革」がその前提となる。

(「働き方改革」をどう進めるか)

しかし、働き方改革というのは、「言うは易く行うは難し」の典型である。以前にも述べたように、日本的雇用においては長期雇用の保証と企業が有する強力な人事権は表裏一体であるため、人事権を制約することなく単純に解雇を容易にしたり、ホワイトカラー・エグゼンプションの導入によって労働時間の制約を取り除くことでは回答となり得ない(注10)。

筆者にも成案があるわけではないが、いくつかのヒントだけでも述べてみたい。その1つは、同一労働・同一賃金の推進を梃子とすることである。わが国では、職務が限定されない正社員と職務が限定される非正規雇用があるため、同じ仕事をしていても賃金水準が大きく異なる場合が少なくない(欧米諸国では、正社員でも職務は限定されているため、賃金格差は比較的小さい)。問題はこの格差が合理的か否かであり、筆者はこの点について、コーポレート・ガバナンス改革で用いられたように、企業に対しcomply or explain(ルールに従えないのであれば、その理由を説明せよ)を求めれば良いのではないかと考えている。

というのも、日本の雇用の大きな特徴は正社員に関してはjob description(職務記述)が存在せず、非正規雇用であっても記述の曖昧な場合が多いことにある(コンビニのアルバイト店員は、随分多くのジョブをこなしているように見えるが、それは予め雇用契約に書かれているのだろうか?)。そして、このjob descriptionの欠如こそが無制限の人事権を企業に与えているのだ。しかし、job descriptionなしに正社員とパートの間の賃金格差を合理的に説明することはできないだろう。結果として、job descriptionさえ整備されれば、ジョブ型雇用への道は大きく拓けるのではないだろうか(注11)。

もう1つの重要な施策は、やはり長時間労働への規制を強化することだろう。山本・黒田[2014]が印象的に描いているように、日本のホワイトカラーの資料作りなどはしばしば過度の丁寧さとなっており、ヨーロッパのオフィスの仕事振りなどと比較すると「効率的に非効率なことを行っている」に過ぎないのではないか。所詮は割り切りの問題だろう(注12)。「他人が長時間を掛けて丁寧に仕事をしているのに、自分だけ手を抜くことはできない」と考えているなら、こうしたrat raceは強制的に止めさせた方がいい。まして、同書で示されているように、長時間労働が健康、とりわけメンタルヘルスに悪影響を与えていることを考えるなら尚更である。

もちろん、日本では税・社会保障をはじめ多くの制度が「日本的雇用」を前提に形成され、制度的補完性(institutional complementarity、青木[2001])の体系を成している。このため、働き方改革を進めるには、これと整合的に他の制度を変えていく必要がある。この点、女性の労働参加を抑制する所得税の配偶者控除制度の見直しが税制調査会の議論の俎上に上るのは大きな第一歩と言えよう。だが、安倍首相が「女性が輝く社会」と唱え始めて3年半以上が経ってようやく議論が始まるのでは、あまりにもスピードが遅すぎないか。また、働き方を変えていくには、教育制度の改革も不可欠である。ただ、本来物価の問題を議論する本稿でこれ以上深入りするのは無理があろう。差し当たり、昨年8月の本欄(今こそ「日本的雇用」を変えよう(4)-税・社会保障制度と教育の改革-)などを参照いただきたい。

3. 「逆所得政策」の勧め

(安倍政権の「逆所得政策」とIMFの提言)

以上のように、「働き方改革」を進めつつ、「新産業革命」の実現を目指していくというのが、日本の成長戦略・構造改革の王道だと考えられる。また、賃金・物価の上昇を定着させるためにも、これらを通じて日本企業の競争力を高めていくのが正攻法であろう。しかし、この方法で日銀が目指す2%の物価上昇目標を実現するには少なくとも数年単位の時間が必要だと思われる。これは、どう考えてもマクロ経済政策のタイム・ホライズンではない。

実際、2%目標が達成される前に、何らかの外的ショック(例えば中国の過剰債務問題のハードランディングなど)によって危機的な経済情勢に陥るリスクが無いとは言えない。しかし、その時に金融政策には対応余地がほとんどないことになる。リーマン・ショック後と比べても利下げの余地が小さいだけでなく、量的緩和もすでに限界に近づいているからだ。また、財政政策を考えてみても、小泉政権時代に財政健全化がかなり進んだ(プライマリーバランス黒字化まであと一歩だった)ため、リーマン・ショック後には大規模な財政出動が可能だったが、現在はその余地も狭まっている(税収の増加がしきりに喧伝されるが、税収は消費増税分を除けばリーマン前に戻った程度であり、その反面で歳出は大幅に増加している)。

そう考えれば、自然に出てくるのは政府が労使双方に働き掛けることで賃上げ、ひいては値上げ(物価上昇)を実現していく「逆所得政策」だろう。かつて1970年代のスタグフレーションの時代には賃金・物価を抑制する所得政策が試みられたが、逆インサイダー・アウトサイダー理論下の日本では賃金・物価の上昇を目指すという意味で「逆」所得政策である。周知のように、これは安倍政権が官民対話の場などを通じて行ってきた政策だ。だが、メディアなどでは「官製春闘」などと批判的な論調が多く、経済学者、エコノミストにも賛成派は東京大学の渡辺努教授と筆者など、ごく少数に止まっていた(注13)。そのためばかりではないだろうが、本シリーズ(物価はなぜ上がらないのか(1)-QQEが明らかにした「デフレの原因」-)でみたように、結果としての賃上げはこれまで期待外れに終わってきた。

しかし、ここに来て注目すべき動きは、4条コンサルテーションと呼ばれる今年の対日審査において、IMFが(逆)所得政策を日本への政策提言の大きな柱に据えてきたことだ(IMF[2016])(注14)。IMFの提言は従来の安倍政権の施策よりさらに踏み込んだものであり、3%以上といった賃上げを企業に求め、これをcomply or explain方式で実現していくとしている(併せて、税制によるインセンティブ付けや公共部門の賃上げも提言している)。これは、従来の金融財政政策だけでなく、(逆)所得政策をも政策メニューに加えようとの考え方が、海外では一定の拡がりを持ちつつあることを示唆するものと言えよう(注15)。

(なぜ「逆所得政策」なのか)

さて、ここでなぜ逆所得政策なのかについて改めて確認しておくと、これは「デフレ均衡」を脱するための策として考えられている。デフレ状態が長く続くと、労働需給が引き締まっても、企業は「自社だけが賃上げをして他社が追随しないなら、自社は競争上不利になる」と考えて、賃上げを避けようとするだろう(日本のメンバーシップ型従業員は、賃上げ要求を我慢するかもしれない)。だから、そこに政府が介入して賃金ガイドラインなどを示すことで各社一斉の賃上げ、ひいては値上げを目指そうとするのだ。政府のような影響力のあるプレーヤーがビッグ・プッシュを行うという意味では、本シリーズ(物価はなぜ上がらないのか(1)-QQEが明らかにした「デフレの原因」-)で述べたQQEの狙いと同じである(違いはQQEが短期的なショック療法なのに対し、逆所得政策は少なくとも一定期間賃上げ圧力を掛け続ける点にある)。

もちろん、賃上げが起きても企業がこれを製品価格に転嫁できなければならない(さもなければQQEの下で実質賃金が低下したように、今度は企業収益が悪化してしまう)。しかし、ここで重要なのはすべての企業の賃金が(原則として)同じ幅で上昇することである。経済学では、個別企業へのコスト・ショックよりも企業・産業横断的なショックの方が価格転嫁しやすいことが知られている(これは、円安や原油高の時に価格転嫁が起こりやすいことからも分かるだろう)。中小企業の多いサービス価格などについては、かつてのような毎年4月の一斉値上げ(上げ幅は賃金ガイドライン並み)を政府が呼び掛けるといった方法もあり得る(そうすれば、賃上げが中小企業にも拡がりやすい)。

こう言うと、多くの企業から聞かれる反論は、「国内企業の賃金は同幅上がったとしても、海外企業との競争上不利になる」というものだろう。しかし経済理論的には、国内の価格がすべて2%上がれば、円相場は2%減価する(実質為替レートは不変の)はずである。中央銀行が物価上昇を容認しない場合は別だが、物価目標が達成されるまで日銀が金融を引き締めることはない。そうなれば、実質金利は低下するため、実質為替レートはむしろ減価する(名目の円相場は2%以上下がる)ことになるだろう。もちろん、為替レートは様々な要因で動くため、相場の先行きを予想することはできないが、原理的には上のように考えるのが正しい理解である。要するに、賃金・物価を一斉に同じ幅上げる場合は、「みんなで渡れば恐くない」のだ。

さらに、もう1つの重要な論点は、現在の日本経済はすでに完全雇用状態にあり(有効求人倍率1.37はバブル期並みである)、物価の上がり方が少々足りないだけだということである。そうであるなら、総需要政策を行うより賃金・物価に直接働きかける政策、すなわち所得政策を用いるというのが、政策割り当て論的にも自然な選択となる。もちろん、所得政策については1970年代のニクソン政権の所得政策がうまく行かなかったこともあり、その有効性への懐疑論が根強いのは事実である。ただ、第2次石油危機後の日本では所得政策が成功したという評価も存在する(注16)。少なくとも試してみる価値のある政策ではないだろうか。

確かに、伝統的なマクロ政策と比べ逆所得政策が非正統的である点は否定し難い(実際、IMFもunorthodoxと言っている)。しかし、最近では金融政策、財政政策の行き詰まりを理由に、ヘリコプター・マネーなどといった過激な政策を求める声が高まっている。もし、この国が失業者の群れで溢れているというなら、そうした極端な政策が提案されることもあり得ようが、「完全雇用だが物価の上がり方が少し足りない」程度で、こうした議論が行われること自体が奇異に感じられてならない(注17)。それは、マクロ政策=金融政策and/or財政政策と狭く考えるから、そうした捨て鉢な議論に追い込まれてしまうのではないか。ここは多少非正統的ではあっても、遥かに常識的な逆所得政策の出番だと筆者は思う。

参考文献

  • 青木昌彦[2001]:『比較制度分析に向けて』、NTT出版
  • 小林雅一[2015]:『AIの衝撃』、講談社現代新書に
  • 鈴木淑夫[1987]:『世界の中の日本経済と金融』、東洋経済新報社
  • 西村康稔[2016]:『第四次産業革命』、ワニブックスplus新書
  • 早川英男[2016a]:『金融政策の「誤解」』、慶應義塾大学出版会
  • 〃 [2016b]:「IMF対日審査報告を尊重せよ」、週刊東洋経済9月17日号「経済を見る眼」欄
  • ブリニョルフソン、エリック/マカフィー、アンドリュー[2015]:『ザ・セカンド・マシン・エイジ』、日経BP社
  • ポーゼン、アダム/ブランシャール、オリヴィエ[2015]:「日本の経済政策への提言:名目賃金5~10%上げを」、12月15日付日本経済新聞「経済教室」欄
  • 松尾豊[2015]:『人工知能は人間を超えるか』、角川EPUB選書
  • 山本勲・黒田祥子[2014]:『労働時間の経済分析』、日本経済新聞出版社
  • 湯川抗[2015]:「ハードウェアとソフトウェアが融合する世界の展望」、富士通総研経済研究所研究レポートNo. 425
  • 渡辺努[2016]:「賃上げ3巡目の論点(下):日銀は『賃金目標政策』を」、2月3日付日本経済新聞「経済教室」欄
  • Borio, Claudio, Piti Disyatat and Anna Zabai[2016]:“Helicopter Money : The Illusion of a Free Lunch”, VOX, CEPR’s Policy Portal
  • Gordon, Robert[2012]:“Is U.S. Economic Growth Over?”, NBER Working Paper No.18315
  • IMF[2016]:“JAPAN : 2016 Article 4 Consultation - Press Release and Staff Report”, IMF Country Report No. 16/267

注釈

(注1) : 当時日銀のエコノミストの一部は「マネーサプライの安定が物価安定をもたらした」とマネタリズムに基づく説明を行っていた(例えば鈴木[1987])。しかし、それは上記のような「ノルム」としての安定的な賃金・物価の上昇を日銀が容認(accommodate)していた結果、(現在の表現では)マネーストックが安定して増加していたということだろう。もちろん、これは金融政策がインフレ率を左右できないという意味ではない。拙著(早川[2016a])でも述べたように、ノルムとしてのインフレ率が高すぎる(=容認できない)と中央銀行が判断するなら、Volker元FRB議長が行ったように、大きなコストを支払ってもノルム自体に変更を迫ることができる。こうした理解は、標準的なインフレ目標政策の考え方と完全に整合的である。

(注2) : この間、97~98年の金融危機が大きな転換点となったことは拙著(早川[2016a])第4章に詳しく述べたとおりである。

(注3) : こう述べるとすぐに出てくる反論は、「世界には競争力などなくても、高インフレの国は沢山ある」ということだろう。確かに、新興国の中には、生産性は伸びなくても大幅な賃上げを求めるという、望ましくない「ノルム」の下で高インフレが続く国もある。しかし、そのような国があることと、日本のように「雇用を守るためなら、賃金は我慢するのが当然」ということを、労使双方が「ノルム」と考えている国でデフレ脱却を図ることとは、全く別問題である。

(注4) : 日本政府が考える「第4次産業革命」については、「日本再興戦略2016」策定時の内閣府副大臣による西村[2016]がコンパクトにまとまっている。

(注5) : さらに、新興国を含めた世界全体でも潜在成長率が低下している可能性が高い。ただし、これには中国経済の成熟化の影響が大きいと考えられる。中国の潜在成長率は一時の10%台から6%程度に減速した可能性があるが、購買力平価(PPP)ベースで見た中国の世界GDPシェアは15%程度だから、中国の潜在成長率が4%低下すれば、世界全体の潜在成長率も0.6%低下することになる。

(注6) : 現段階の人工知能(第3次ブーム)は、大量データの統計的相関分析に基礎をおいている。ただし本稿では、これ以上新しいイノベーションの技術面に触れることはできない。興味ある読者は松尾[2015]、小林[2015]などを参照されたい。

(注7) : この点で、トヨタがシリコンバレーにAIの研究所=TRIを設立したことは心強い動きと言える。

(注8) : この「要素技術の罠」の象徴的な事例がルネサス・エレクトロニクスだろう。東日本大震災で同社のひたちなか工場が被災した結果、日本メーカーのみならず世界の自動車生産に大きな障害が生じた。それだけ貴重な要素技術を持つ同社だが、震災の前も後も赤字とリストラを繰り返し、現在は官民ファンドである産業革新機構の傘下にある。

(注9) : それでも、30代から40代男性の未婚率は正社員と非正規雇用の間に顕著な差がみられる(昨年8月の本欄(今こそ「日本的雇用」を変えよう(3)-「ジョブ型」雇用をデフォルトに-))

(注10) : 筆者自身のサラリーマン生活を振り返っても、job descriptionもないままに労働時間の制約が緩和されれば、上司次第でブラック企業ならぬブラック部、ブラック課が簡単に発生してしまうと思う。

(注11) : 命令次第で社員の職務はいつでも変えられると考えてきた日本企業にとって、新たにjob descriptionを整備することは極めて大きな労力を要する仕事となるだろう。筆者個人は、日本企業の人事部がジョブ型雇用を嫌う大きな理由の1つはここにあるのではないか、とさえ疑っている。逆に言えば、同一労働・同一賃金のためにjob descriptionさえ整備されてしまえば、ジョブ型雇用への道も意外に近いのではないか。

(注12) : ちなみに、山本・黒田[2014]は、日本人でもヨーロッパに転勤すると就業時間が短くなることを指摘している。

(注13) : 代表的な論稿としては渡辺[2016]。筆者自身は14年の春闘の頃から賃上げの重要性を訴えてきた(14年2月の本欄(春闘に望む))。

(注14) : 所得政策以外にも今年のIMFの対日審査報告は注目すべき提言を含んでいる。この点については早川[2016b]を参照。

(注15) : 日本に賃上げを求める海外の有力エコノミストの提言としては、例えばポーゼン・ブランシャール[2015]などがある。

(注16) : この点については、早川[2016a]の第4章を参照。

(注17) :なお、貨幣発行益(seigniorage)が発生するのは現金だけであり、中央銀行の保有する国債が(金融政策が正常化した後は)利子を支払う超過準備で賄われるなら、将来も利払いを必要としない中央銀行による恒久的な財政ファイナンスにはならない、すなわち「ヘリコプター・マネーはフリー・ランチではない」ことは早川[2016a]の第4章で論じたとおりである。この点については、Borio et al[2016]をも参照。

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早川 英男(はやかわ ひでお)
経済研究所エグゼクティブ・フェロー
1954年愛知県生まれ。1977年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。1983~1985年米国プリンストン大学大学院(経済学専攻)留学(MA取得)。調査統計局長、名古屋支店長などを経て2009年日本銀行理事。日本銀行在職期間の大部分をリサーチ部門で過ごした後、2013年4月より現職。
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