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今こそ「日本的雇用」を変えよう(2)

―「日本的雇用」の歴史:成功から変質へ―

2015年8月18日(火曜日)

1.「日本的雇用」の生成

「日本的雇用」がいつ始まったのか、という問いに答えるのは簡単ではない。「3種の神器」に代表される企業と従業員の長期的関係(=日本的雇用)以外にも、株主のためではなく従業員のための経営、メインバンク制や下請け・系列などの企業間の長期的関係、さらには行政指導や業界団体を通じた政府・企業関係などを含んだより広い意味での「日本型経済システム」が形成された時期としては、1930年代から40年前後の重工業化と戦時経済化の時期だったというのが、一般的な認識だろう(注1)。それ以前の日本経済では、労働者が企業間を移動するのは普通だったし、企業の資金調達は株式や社債発行による場合が多く、企業経営に対する大株主の発言力も強かったからである。

雇用関係に絞って考えても、1920年代から一部の大企業で熟練労働者の長期定着が図られ始めていたが、戦時期の「産業報国会」によって企業内組合、労使協調の枠組みが作られた。しかし、終戦直後はGHQによる労働組合育成策の影響もあって、労使紛争が多発し、激しいストライキもしばしば見られた。したがって、1940年体制の成立=日本的雇用の生成と単純に考えることはできない。むしろ本稿のように、単に長期的雇用ではなく、OJTによる企業内訓練での人的資本形成をも重視する立場からは、日本的雇用が本格的に生成したのは1950年代からの高度成長期ということになる。この時期の大きな課題は、初等教育の水準は高かったとはいえ、労働者の圧倒的多数が中卒以下の学歴という状況下で、急激な技術進歩に対応することであった。おそらくトヨタの養成工制度などが典型だが(注2)、中卒の優秀者に対して座学と現場実技によって熟練工が育てられて行く一方、労使紛争は徐々に沈静化して行ったのである。トヨタの例で考えれば、中学を卒業したばかりの工員が、当時の最先端技術を駆使した自動車製造に必要な技能を身に付けていたとは到底考えられないし、仮に工業高校に進学しても、必要な知識を授けられる教員は僅かだっただろう。そういう意味で、優秀な若者をまず採用して社内のOJTで育てるというのは、キャッチアップ型の産業にとって、極めて適合的な雇用形態だったと考えられる。

しかも、日本経済が大きな成功を収めた1950~80年代は冷戦の時代にほぼ重なるが、当時の環境は「2つの安定」という意味で日本にとって極めて有利なものだった。その第1は、政治経済的な環境の安定である。冷戦の時代は、国際政治学者たちがlong peaceと呼ぶように、一面平和な時代でもあった。その中で日本は、軽軍事の吉田ドクトリンの下、概ね70年代まで経済的キャッチアップに集中するのだが、冷戦が終わるまでに本格的な産業化に成功したのは、世界でもAsian 4 Tigersと呼ばれる小国だけだった(韓国、台湾、香港、シンガポールの人口をすべて足し合わせても日本に遠く及ばない)。つまり、日本は追い掛けるだけで追い掛けられることのない最後の産業大国という地位に長い間いたのだ(注3)。第2に、ICT革命が本格化する80年代までは、テクノロジーの面でも相対的な安定期にあった。実際、70年代までの産業化をリードし、日本が大成功を収めた自動車や家電は、基本的に第2次世界大戦以前に確立したテクノロジーの上に成立したものである。ゆっくりした技術進歩において、日本型カイゼンが大きな威力を発揮したのだ。

2.「日本的雇用」の成功と制度的補完性の形成

このように、日本型経済システムは大きな成功を収めたのだが、実際に「メンバーシップ型」雇用が一般的となっていたのは、当時も大企業だけだった。そういう意味で、狭義の「日本的雇用」に該当するのは国民の一部だけだったのだが、60年代前半から第1次石油ショック前までは、長期間人手不足が続いたこともあり、中小企業従業員の雇用も安定し、日本全体で擬似終身雇用が実現したかのように感じられた。それを象徴するのが「一億総中流」という言葉だろう。内閣府の「国民生活に関する世論調査」において、「中流」と答えた者が60年代半ばには8割を超え、70年代には9割超に達したことを指すものだが、この当時の日本は経済的繁栄と平等の双方を満たした稀有な社会だったと言える(注4)。

このように、「日本的雇用」が成功を収めると、他の制度もそれを前提とする形となって行った。故青木昌彦教授の比較制度分析の言葉を使えば、制度的補完性の形成である(注5)。その1つが、税・社会保障制度である。日本では、無限定正社員である夫と専業主婦である妻+子どもからなる世帯を「標準世帯」と呼び、これを前提に制度が組み立てられた。その特徴は、社宅や住宅ローン、レジャー・スポーツまでを含む福利厚生を企業に押し付け、高齢者の介護を専業主婦のいる家庭に押し付けることで、社会保障負担を軽減し、「小さな政府」を実現するというものだった。言わばその「見返り」として設けられたのが、税制面での配偶者控除であり、厚生年金の3号年金(専業主婦は保険料を払わなくても、夫の保険料のみで年金受給権が与えられる)という専業主婦を優遇する制度だ。(4)で述べるように、後にこれらは女性の労働参加を抑制する制度として問題となってくる。

もう1つは教育である。前述のように、日本企業は学校での職業教育に期待せず、自らOJTで職員の教育を行う方針を採ったが、これは職業教育の価値を評価しない教育関係者からも歓迎された。その結果、学校は職業教育を事実上放棄して一般教養を重視することとなり、大学進学を目指さない生徒まで普通高校に通うことになった(工業高校、商業高校の多くは普通科に転換した)。中卒が普通だった時代と違い、大学進学者が増えた時代においても、本当に企業内のOJTの方が学校教育より優れていたのかは疑わしい。しかし、「自社流のやり方」に自信を深めていた多くの大企業が新卒採用時に「地頭は良いが、色に染まっていない」学生を求めたため、大学でも一部の理工系を除いて職業教育が行われることはなかった。ここで注目すべきは、企業がOJTの吸収力を保証する地頭の指標として大学の序列(後には偏差値)を使った結果、厳しい受験競争が繰り広げられた一方、大学で学んだ学問内容を重視することはなかったため、大学がレジャーランドと化したことである(注6)。

3.環境変化と日本企業の適応不全

このように、1980年代頃までは欧米経済の不振と裏腹に大きな成功を収め、Japan as No 1などと讃えられた日本型経済システムも、その後、試練の時期を迎えることになる。冷戦終了前後に起こった大きな環境変化は、それまでの日本の優位性を掘り崩すような性質のものだったからだ。環境変化の第1は、冷戦終了とともに始まった経済のグローバル化である。冷戦が終わると、先進国から途上国に向けての巨額の資本移動が始まった。この資本移動は技術移転を伴ったこともあり、中国を筆頭に大きな人口を擁する国々の産業化につながる。この結果、日本は戦後初めて、低賃金の新興国との競争で本格的に「追われる立場」に立った。と同時に、世界の貿易額自体が急増する(【図表1】)。この20世紀末に再開したグローバル化と比べると、日本が国際競争の勝者であった冷戦期を含む20世紀中葉は、相対的に見て「閉鎖経済の時代」だったのだ(注7)。

【図表1】世界貿易/GDP比率の推移
【図表1】世界貿易/GDP比率の推移
出所)加藤涼・永沼早央梨「グローバル化と日本経済の対応力」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2013年12月(PDF)

第2は、ICT革命の始まりである。これは、20世紀初頭の大量生産方式の普及による第2次産業革命以来の大きな技術的パラダイム・チェンジだった。この結果、80年代頃までとは技術進歩のスピードが全く変わり、日本が得意とするカイゼンの優位性は失われた(社内のOJTで育てられた技術者は、自らが信じてきた土俵自体をひっくり返すような変化には対応できない)。また、インターネットの普及は、日本の長期雇用や長期的な企業関係なしに効率的な情報共有を可能とする途を拓いた。これ以降、世界の新製品・新市場開拓の主導権は米国企業が握り(かつてはWintel、今はApple、Google、Amazon)、彼らが生産を台湾や中国のEMS(Electronics Manufacturing Service)に委託すると、日本のモノづくりの優位さえ大きく揺らいでしまった。

製造業を中心に日本企業の競争力の優劣を説明するには、藤本隆宏教授らの枠組みを使うと分かりやすい(注8)。この枠組みでは、(1)パソコンのように、部品間の接続部分(インターフェイス)のみを共通化した上で、バラバラに開発された部品を自由に組み合わせて製品を作る「組み合わせ型(モジュラー型)」と、(2)自動車のように、部品や素材の適合性を十分に摺り合わせながら、チームとして製品に練り上げて行く「摺り合わせ型(インテグラル型)」が対置される。その上で、組み合わせ型はベンチャーやEMSを自由に活用できる仕組みであり、米国や中国の企業が得意とする製品、一方、組み合わせ型は長期雇用や企業間の長期関係を前提とした日本企業が得意とする製品とされる。この説明は直感的にも極めて説得的であり、こう考えれば、ICT革命とは組み合わせ型の製品の重要度を高める変化だったと捉えることができよう。

ただし、藤本教授らが自動車産業を「典型」として、日本のモノづくりの優位性が揺らいでいないと主張することには、筆者は違和感を覚えざるを得ない。と言うのも、半導体やデジタル家電などが優位性を失ってしまった今、自動車を別にすれば、日本が優位性を誇り得る摺り合わせ型の製品は、ごく一部の素材、部品、資本財だけである。だとすれば、自動車はあくまで「例外」と位置付けて、日本のモノづくりがなお優位にあるという幻想は棄てた方が現実的ではないだろうか(注9)。なお、このグローバル化、ICT化の時期が89~90年の日本のバブル崩壊の時期とちょうど重なったのは、ある意味で不幸な偶然だった。このため、日本経済の不振はバブル崩壊のせい、過剰設備・過剰雇用・過剰債務のせい、デフレのせいであって、「モノづくりでは負けていない」という幻想が残ってしまった(=対応が遅れた)のかもしれない。

4.「日本的雇用」の変質

こうして日本型経済システムの優位性が失われ、日本企業の経営が苦しくなった1990年代には「日本的雇用」も変質を始めるのだが、その前に日本的雇用が元々大きな限界を抱えていた点を指摘しておくべきだろう。先に、日本的雇用はキャッチアップに適合的だったと述べたが、同時にそれは企業の高成長を前提とするものだった。終身雇用、年功序列である以上、企業規模が拡大し続けない限り、いずれ人件費の過大、ポスト不足という壁に直面することになるからだ。第1次石油ショックを機に成長率は鈍化し、80年頃にはキャッチアップも終わった。バブル前後には、大量採用の団塊世代が管理職年齢となり、部課長ポストのインフレ等で凌いでいる頃に、前述のようなショックに見舞われ、日本的雇用も変わらざるを得なかったのである。

実際に行われたのは、従業員の一部を「非正規雇用」として「メンバーシップ」から外すことで人件費を引き下げることだった。その動きを主導したと言われるのが、95年に日経連(現・経団連)が公表した『新時代の「日本的経営」』という報告である。この報告書では、従業員を(1)従来のメンバーシップ型正社員をイメージした「長期蓄積能力活用型グループ」、(2)スペシャリストをイメージしたと考えられる「高度専門能力活用型グループ」、(3)より定型的な業務に携わる「雇用柔軟型グループ」の3種類に分類し、全体として雇用ポートフォリオを形成することが提唱された(【図表2】)。

【図表2】日経連報告による雇用ポートフォリオ
【図表2】日経連報告による雇用ポートフォリオ
出所)日本経営者団体連盟『新時代の「日本的経営」』、1995年(連合総研レポート2014年7・8月号より再掲)(PDF)

ここで、それぞれのグループに想定されている処遇は、(1)に対しては期限の定めのない雇用契約で職能給、(2)と(3)に対しては有期雇用契約で職務給ということであった。なお、職務給とは明確にジョブが定められ、それに対して給与が支払われる欧米などで一般的な給与形態である。一方、職能給とはその時々の職務とは別に潜在的な職務遂行能力を評価し、その能力に見合った給与を支払うという日本のメンバーシップ型雇用に典型的な給与形態を指す。ただし、潜在的な能力の評価は困難なため、職能給は年功的になりがちであり、その仕組みのために日本では同一労働・同一賃金という常識が成り立たないことを指摘しておこう(注10)。なお、こうした雇用ポートフォリオの考え方自体には一定の合理性があるとしても、結局、日本ではスペシャリストが活用されることはなく、従来の日本型雇用の一部が「雇用柔軟型」という名のパートや派遣労働に代替されただけだった。実際、この頃から日本の労働市場でも非正規労働が急増し始める(【図表3】)。

【図表3】非正規雇用の急増
【図表3】非正規雇用の急増
出所)社会実情データ図録

こうした変質を伴いながらも、日本企業は何とか全体として「日本型雇用」を維持して行ったのだが、反面でそのコストも軽視できない。その第1は、経済のデフレ体質の定着である。日本企業は、非正規雇用を活用できるようになっただけでなく、労働組合の弱体化も進んだため、不況や競争力の劣化に対して賃金引き下げで対応するようになった(注11)。その結果、不況期でも失業率は諸外国に比べ大幅に低い(リーマン・ショック後のピークでも5%台、欧米では2桁が普通)一方、小幅の物価下落からなかなか抜け出せなかった(注12)。第2に、かつて日本企業は「強い現場、弱い本社」と言われたが、今はOJTが施されない非正規雇用が増えて、現場が弱体化したとの批判がある。他方、幹部候補生は未だに専門知識を持たないまま就職し、その後長期間、雑巾掛けを強いられるため、本社は革新力に乏しいままである。安易なコスト圧縮型の雇用再編は、企業の競争力の再生につながらなかったのではないかと考えられる。

注釈

(注1) : この点については、岡崎哲二・奥野正寛(編)『現代日本経済システムの源流』(日本経済新聞社、1993年)や野口悠紀雄『1940年体制』(東洋経済新報社、1995年)などを参照(本稿での日本型経済システムの記述は、主に岡崎・奥野に従っている)。
その起源を革新官僚らによる満州国経営に求めたものとしては、小林英夫・米倉誠一郎・岡崎哲二・NHK取材班『「日本株式会社」の昭和史』(創元社、1995年)がある。これは、さらに視野を拡げれば、welfare state=warfare stateと喝破した山之内靖の総力戦体制論につながる。例えば、山之内靖『システム社会の現代的位相』(岩波書店、1996年)参照。

(注2) : トヨタは、戦前から豊田工科青年学校という社内教育機関を有していたが、1951年に同校を再開、53年からは新規中卒を対象に3ヵ年教育が確立された(最盛期は1960~70年代だったが、現在もトヨタ工業学園という名称で存続している)。

(注3) : 18世紀の英に始まった産業革命は、仏、米、独と拡がり、19世紀末には露、日にまで及ぶが、それに続く国はほとんどなかった。もちろん、20世紀前半までは多くの国々が植民地支配下にあったし、2つの世界大戦や世界恐慌に伴う混乱もあった。それに加えて、ブレトンウッズ体制が基本的に国際資本移動を抑制するシステムであったほか、共産化=国有化のリスクもあって南北間の国際資本移動は極めて限定的だった。

(注4) : その後、日本は格差社会になったと言われるが、同調査で見る限り、「中の中」という答えこそ70年代と比べ若干減っているが、「中の上」、「中の下」と合わせた回答は現在でも9割を大きく上回っている(昨年度では93.1%)。

(注5) : 青木昌彦『経済システムの進化と多元性』(東洋経済新報社、1995年)、青木昌彦・奥野正寛(編著)『経済システムの比較制度分析』(東京大学出版会、1996年)などを参照。

(注6) : こうした学校のあり方に対する批判に、本田由紀『教育の職業的意義』(ちくま新書、2009年)がある。

(注7) : なお、この時期は今話題のピケティ(Thomas Piketty, “Capital in the Twenty-First Century”, Belknap Press, 2014)が指摘した所得格差が縮小した時期に一致する。これは、英国の歴史家ホブズボームの言うロシア革命からソ連崩壊までの「短い20世紀」とも一致する(E. ホブズボーム『20世紀の歴史(上・下)』、三省堂、1996年)。これを前述の山之内靖氏の所論と重ねれば、この時期は国家が資本より優位に立ち、だからこそ国際貿易・国際資本移動が制限され、所得格差も抑制されたと理解できよう。国家優位の時代に、日本型システムが成功したのは、青木教授流の比較制度分析の観点からも決して不思議ではない。

(注8) : 藤本隆宏『能力構築競争』(中公新書、2003年)、同『日本のもの造り哲学』(日本経済新聞社、2004年)などを参照。

(注9) : その自動車でさえ、電気自動車(EV)が中心となる時代が来れば、摺り合わせ型製品ではなくなってしまう恐れがある(だからこそ、トヨタは燃料電池車の開発にあれだけ熱心なのだろう)。しかも、近年は工業製品でもソフトウェアの重要性が着実に増しているが(自動車でも、将来的にはGoogleらが主導する自動運転装置が重要となると考えられている)、ソフトウェアは日本企業の得意分野ではない。

(注10) : 正社員とパートが同じ仕事をしていても、一方には潜在的に転勤の可能性があり、その能力が評価されているという建て前で異なる賃金が支払われる。

(注11) : このほか、経営不振の企業にも貸出を継続し、金融面から延命を図る「金融円滑化法」や、不振企業が雇用を継続することに補助金を給付する「雇用調整助成金」といった政府の施策も、こうした対応をサポートするものだった。

(注12) : こうした賃金引き下げにデフレの主因を求める見方としては、吉川洋『デフレーション』(日本経済新聞出版社、2013年)がある。

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早川 英男(はやかわ ひでお)
経済研究所エグゼクティブ・フェロー
1954年愛知県生まれ。1977年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。1983~1985年米国プリンストン大学大学院(経済学専攻)留学(MA取得)。調査統計局長、名古屋支店長などを経て2009年日本銀行理事。日本銀行在職期間の大部分をリサーチ部門で過ごした後、2013年4月より現職。
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