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  4. 「デフレ・マインド」は転換するか?

「デフレ・マインド」は転換するか?

2015年3月16日(月曜日)

1. 「インフレ期待」と「デフレ・マインド」

最近の黒田日銀総裁の講演を読んでいて気づくのは、以前の「インフレ期待」という表現に替わって、「デフレ・マインド」という言葉が多く使われていることである。この2つの言葉がどれだけ区別して使われているのか定かでないが、「デフレ・マインド」の英訳がdeflation mindsetとなっている点を踏まえると、ある程度区別して考えるべきではないかと思う。インフレ期待が単に「先行きの物価上昇率に関する予想」を意味する一方、デフレ・マインドは「デフレ時代に身に付いた思考法」と捉えられるからだ。

実際、昨年12月に経団連で行われた講演で、黒田総裁は「企業にとっては、売上の増加が期待できないことから、人件費や原材料費の引き下げといったコスト・カットを行い、あるいは設備投資をできるだけ圧縮して、利益を確保し、財務状況を安定化することが最大の経営課題となりました」と語っている。こうした消極的・防衛的な思考法・行動様式がデフレ・マインドと呼ばれているのだろう。そして、この両者を区別することで、幾つかの重要な論点を浮かび上がらせることができるのではないかと示唆するのが、拙稿の狙いである。

2. 資産価格と実物経済の違い

ここで最初に採り上げたいのは、日銀の量的・質的金融緩和(以下QQE)に対する資産価格と実物経済の反応の違いである。周知のように、QQEの結果、株価や為替レートといった資産価格は大きく反応した。その背後には、先行きの予想物価上昇率が高まったことが影響しているのだろう。インフレ期待の指標として何が適切なのかは難しい問題だが、どの指標を見ても程度の差はあれ、QQE導入前後から水準がはっきり上がっている(注1)。この間、短期金利はずっとゼロ近傍、長期金利は低下傾向だったから、日銀の狙ったとおり実質金利は低下し、それが株価上昇、為替の円安要因になったのだと考えられる。この面では、期待への働き掛けが大きな成果を収めたと評価できよう。

これに対し、実物経済の反応は極めて鈍かったと言わざるを得ない。例えば、企業収益は改善し、実質金利はマイナスとなっているにもかかわらず、設備投資の伸びは緩慢に止まっている(14年度のGDPベース設備投資はプラスになるか、マイナスになるか微妙なところだ)。これは、設備投資関数を

設備投資=α+β×企業収益+γ×実質金利+・・・・

と書いてみれば、βやγの値が極めて小さい(小さくなっている)のだと考えられる。これを先の消極的・防衛的な企業様式の表れと捉えるなら、「インフレ期待は高まったが、デフレ・マインドは解消していない」ということになろう(注2)。

こうした金融市場と実体経済の反応の違いは、経済理論的にも決して不思議なものではない。実際、不確実性の下では、非可逆的な投資などは先送りされやすいことが知られている。例えば、円安を予想して大規模な輸出向けの工場を建設した途端に急激な円高に襲われれば、大きなダメージを蒙るだろう。仮に工場を売却しても、投資した資金をすべて回収することは到底できないからだ。だから、企業は円安が持続するかどうか見極めようとするし、為替のvolatilityが大きくなれば、投資決定はより慎重になるだろう(注3)。このことは、雇用や賃金に関しても同様であり、企業が先行きの不確実性を意識するほど、非正規雇用は増やしても正社員は増やさない、ボーナスは増やしてもベース・アップは避けるといった行動を採ることが予想される。

一方、金融取引には非可逆性がなく、取引コストもほとんど無視できるため、投資決定の先送りは有利にならない。株価が上がると思えば、誰よりも早く買うべきだし、予想が外れれば直ちに損切りすれば良い。プロの投資家にとっては、市場価格のvolatilityが高いほど「投資妙味がある」ということになろう。

3. learned pessimismとしてのデフレ・マインド

とはいえ、不確実性と非可逆性だけで、消極的・防御的な行動様式としてのデフレ・マインドを説明するのは、多少無理があるように思う。投資の非加逆性は今も昔も同じだし、事業環境を巡る不確実性はかつての高度成長期にも高かった筈だ。それでも当時の企業の設備投資意欲は旺盛だったし、毎年のようにベース・アップも行われた。そうした企業の積極性(アニマル・スピリットと言っても良い)が失われ、消極的な行動様式が根付いて行った背景には、過去20年あまりの長期低迷・デフレの時代に日本経済が多くの不幸な経験を重ねたことがあるのだろう。不動産バブル崩壊・資産デフレから始まって、度重なる円高、金融危機、リーマン・ショックのような外的衝撃(それに阪神淡路・東日本の大震災、タイでの洪水といった自然災害を加えても良い)の歴史だ。デフレ・マインドとは、その結果としてのlearned pessimismではないのか。

この点、筆者が特に注目したいのは、この間に日本経済が97~98年の金融システム危機、02~03年の不良債権処理に伴う金融不安、08年のリーマン・ショック直後の流動性危機という、広い意味での金融危機を3度にわたって経験したことである(注4)。流動性危機の中では、どんなに収益性や成長性に富んだ企業であっても、目先の資金繰りに行き詰まれば倒産に陥ってしまう。「現金が王様」(Cash is king!)ということを痛感させられた企業は、倒産リスクを減らすために、設備投資や正社員の雇用、ベース・アップといった資金の固定に繋がることをできるだけ避けて、現金を積み上げようとするだろう(注5)。これこそまさに、長期低迷・デフレ期に日本企業が身に付けた消極的・防御的な行動様式=デフレ・マインドに他ならないと言えよう。

しかも、こうした金融危機を経験した後の企業行動の変化は、日本だけで観察されるものではない。97年のアジア危機以降、これまで資金不足(=経常赤字)基調にあった多くのアジア諸国が資金余剰(=経常黒字)基調に変わったことはよく知られている。また、リーマン・ショック後の欧米でも、投資の回復テンポは鈍く、多くの企業が現金の積み上げに走っていることは、しばしば指摘されているとおりである(注6)。

以上を踏まえれば、なぜアベノミクス、QQEによる景気回復、物価上昇が今一つ力不足だったのかは容易に理解できる。確かに、QQEで円安・株高は実現したし、公共事業の大幅な増加で景気回復も促された。物価は、主に円安の影響でプラス圏へと浮上した。しかし、景気が回復し企業収益が改善しても、設備投資の増加は小幅に止まったし、大幅な円安も輸出の明確な増加には結び付かなかった(注7)。期待された公共投資から民需へのバトン・タッチが進まなかったために、消費増税とともに景気回復は勢いを失ってしまったのだ。物価についても同様である。本来は円安による物価高から賃金改善を伴った物価上昇への転換が期待されたのだが、賃上げがごく小幅に止まった(昨春の主要企業の賃上げ率は+2.2%だったとされるが、定期昇給を除いたベース・アップは+0.4%のみだった)ため(注8)、円安の一巡とともに物価上昇率は低下に転じた。いずれの面でも、期待されたバトン・タッチ=好循環がデフレ・マインドの壁によって堰き止められてしまったということだ。

4. デフレ・マインドの転換には何が必要か?

結局、アベノミクスとQQEはデフレ・マインドの氷にヒビを入れることはできたが(その成果を過小評価してはいけない)、それを融かすには至らなかったということだが、それではデフレ・マインドの転換には何が必要なのだろうか?  ここで確認すべきは、learned pessimismとしてのデフレ・マインドをもたらしたものは、必ずしも物価下落だけではないという点だ。その意味で、デフレ・マインドという表現自体が多少なりともミスリーディングだという気がするが、まして「マネタリー・ベースを増やせば、デフレ・マインドが解消される」などとは到底考えられない。結局、learned pessimismを解消するには、現実に良い経済環境が長く続くことを実感させる以外にないのではないか。

政策的には、まず成長戦略を具体化することで、ビジネス・チャンスの存在を企業の眼に見えるものにすることである。「成長戦略では、成長率はすぐには高まらない」との批判もあるが、時間が掛かるのは当たり前だ。むしろデフレ・マインドの氷を融かして行く上では、医療・介護、農業、観光等の分野で、じっくりと事業開拓に取り組める環境を整えることが重要だろう。金融政策でも同様に、インフレ目標達成の時限を限ってアグレッシブに金融緩和を進めても得るものは少ない。今年の賃上げ率は昨年を上回ると期待されるが、1%超のベース・アップは難しそうだ。それでは2%インフレには届かないが、足りない分を円安で強引に埋めようとすれば、実質賃金の低下を招くことはすでに経験から学んだ筈である(注9)。それよりも、フォワード・ガイダンス等を通じて、長期間緩和的な金融環境を維持するとコミットすることが大事だ(注10)。

「良い経済環境が長く続く」という意味では、むしろ足もとの原油安こそ最大のチャンスかもしれない。昨年12月の本欄でも指摘したように、すでに昨夏を底に景気が回復軌道に戻りつつあったところに、原油価格の急落が日本経済にとって大幅な減税に等しい効果をもたらすため、来年度は高めの成長が実現する可能性が高い。確かに、目先のインフレ率が低下することは避けられないが、「良い経済環境が長く続く」という点では、これまで円安と消費増税の負担に苦しんできた家計や中小企業、地方へ、原油安の恩恵が幅広く及ぶことが重要だ(物価への影響は比較的短期間に表れるが、経済へのプラス効果はじっくりと拡がる)。上記オピニオンでは、「1~3月には、日銀が掲げた『2年で2%』のインフレ目標はますます絶望的になるが、ちょうどその頃景況感の改善が徐々に拡がって行くであろう」との逆説を弄したが、3月の景気ウォッチャー調査などを見ると、まさにそのとおりの展開になりつつある。再び逆説で本稿を締め括るならば、原油価格の下落こそデフレ・マインドの氷を融かして行く上での特効薬ではないか。焦らず、じっくり構えることが肝要である。

注釈

(注1)
予想物価上昇率の指標については、例えば日本銀行『金融経済月報(2015年2月)』の図表28を参照。

(注2)
こうした問題意識に近い最近の論考としては、学習院大学・宮川努教授の「設備投資増 緩和頼みの限界」(日本経済新聞3月11日付「経済教室」欄)を挙げることができる。宮川論文では、企業の「安全志向」が設備投資増加の障害になっているとされるが、この安全志向こそ、まさにデフレ・マインドであろう。

(注3)
こうした投資理論に関する基本文献は、A. K. Dixit and P .S .Pindyck (1994), Investment under Uncertainty, Princeton University Pressである。このモデルの数学的定式化からは「投資決定を待つことにオプション価値が生まれる」との結論が得られるため、リアル・オプション理論と呼ばれることもある。

(注4)
正確に言うと、この3つの危機の性格はそれぞれに異なる。97~98年は大手金融機関の破綻に伴う真性の金融システム危機であり、97年末頃から中小企業が金融機関からの借入れに困難をきたしたほか、98年秋にはCP、社債の市場が麻痺し、多くの大企業も資金繰りに苦しんだ。これに対し、02~03年は政府主導による不良債権処理の加速に伴うもので、優良企業への影響は少なかった一方、債務比率の高い企業が狙い撃ちされ、財務内容の改善が重要との意識を企業に植え付けた。最後にリーマン・ショック後は、CP、社債市場の麻痺という点では98年に似ていたが、とくに外貨の資金繰りが困難化した点に特徴があり、グローバル企業への影響が大きかった。

(注5)
この点に関しては、早稲田大学・広田真一教授の論文「日本の大企業の資金調達」(宮島英昭編著『日本の企業統治』(2011年)、東洋経済新報社の第9章に所収)が極めて興味深い。この論文によれば、日本の上場企業の資金調達行動は「企業価値の最大化」より「企業の存続確率の最大化」と考えた方が整合的に説明されると言う。こうした解釈は、伝統的な経済学の立場からは異端的であろうが、日本のコーポレート・ガバナンスの現実を見れば、経営者の多くが「倒産確率を引き下げること」をかなり重要な制約条件と考えている事実は疑い得ない。

(注6)
こう考えれば、日本のQQEに限らず米国の量的緩和など含めて、「非伝統的金融政策は、資産価格の明確な影響を及ぼす一方、実体経済への波及は弱い」とされることをある程度説明できよう。なお日本では、「米国のQEは大成功だった」との見方が多いようだが、実際には株価こそリーマン前を遥かに上回っているが、実体経済の回復は導入後6年以上経ってもゼロ金利が未だに解除できない程度である。

(注7)
企業収益が改善し、実質金利が低下しても、設備投資の反応が鈍いことなどは、過去の経験から分かっていた一方、輸出の円安への反応の鈍さは今回の大きな驚きであった。これには、企業の海外生産拡大や一部産業の輸出競争力の衰えなどが影響したのだろう。ただ、これをlearned pessimismの観点から見ると、前回円安局面での大手電機企業による大型投資の失敗がもう一つの不幸な経験として加わった結果とも考えられる。

(注8)
これまで筆者は、デフレ・マインドを専ら企業の思考法、行動様式として捉えてきた。これに対し、黒田総裁は前記の講演の中で「『モノの値段はだんだんと下がって行く』という見方が定着すれば、消費は先送りされる傾向が強まります」と述べている。これは、経済学的には正しい命題であるし、多くの人が指摘する点である。
しかし、1年平均で0.5%にも満たないデフレで本当に消費が先送りされるのだろうか?実際に家計貯蓄率を見れば、一貫して低下傾向にあり、昨年度はついにマイナスに転じた(貯蓄超過を強めているのは企業だ)。もちろん、これには高齢化の影響が大きいが、家計調査などで年齢階層別の貯蓄率を見ても、明確な上昇傾向は観察されない。最近の物価上昇も消費意欲の高まりに繋がらなかったことをも踏まえるなら、この命題は比喩の域を出るものではないと筆者は理解している。
むしろ、家計のデフレ・マインドを言うなら、物価上昇、企業収益の改善、労働需給のタイト化にもかかわらず、労働組合の賃上げ要求自体が控え目なものに止まっている点だと思う。これも、過去20年余りの間多くの企業で大規模な雇用リストラが行われた結果生まれたlearned pessimismの表れであろう。

(注9)
先に述べた点を踏まえれば、昨秋の追加緩和(QQE2)の時のように、政策でサプライズを与えれば、市場価格は大きく反応し、金融ディーラーは歓迎するだろう。しかし、市場のvolatility拡大は、実物経済の反応をむしろ慎重化させることになる。

(注10)
最近の経済指標の中でとくに注目されるのは、漸く輸出が増加し始めたように見えることである。それが基調的な変化かどうか、まだ確認の必要があるが、一つの解釈は、企業が円安の持続性について自信を持ち始めたというものだろう。先に見たDixit流の投資理論に従えば、それこそが企業が実際に動き出すか否かの鍵となるからだ。ここでも大切なのは時間であり、購買力平価(PPP)を大きく上回る水準まで為替を強引に押し上げても、反動を恐れる企業は、むしろ輸出・投資に慎重になってしまう可能性がある。

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早川 英男(はやかわ ひでお)
経済研究所エグゼクティブ・フェロー
1954年愛知県生まれ。1977年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。1983~1985年米国プリンストン大学大学院(経済学専攻)留学(MA取得)。調査統計局長、名古屋支店長などを経て2009年日本銀行理事。日本銀行在職期間の大部分をリサーチ部門で過ごした後、2013年4月より現職。
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