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コーポレートガバナンスの敗北と再生

2009年2月2日(月曜日)

1. 有効でなかったアメリカ型コーポレートガバナンス

アメリカ発の金融危機でコーポレートガバナンスが有効に働かなかった。いわゆるアメリカ型(アングロサクソン型とも呼ばれる)の株主指向スタイルのコーポレートガバナンスが有効ではないということが証明された。それは、コーポレートガバナンスをうまく働かせる仕組みができていなかったのか、あるいはアメリカ型のコーポレートガバナンスの原理に誤りがあったのか、われわれはしっかりと検証しておく必要がある。

2008年4Qも、アメリカの大手金融機関は惨憺たる数字を計上している。比較的証券化とは距離を置いていたWells Fargo & Co.くらいは例外としても、危機の根源となった投資銀行だけでなく、あらゆるタイプの金融機関が毒と称される証券化にまみれ、経営に問題があったこと、そしてコーポレートガバナンスのあり方が正しくないことを物語っている。

先日、アメリカの経営学に詳しい人たちと議論する機会があった。その主張は多くの金融に携わる人と一致するので紹介する。

危機の最も大きなポイントは、経営者が証券化ということを理解しておらず、結果としてサブプライムローンを原資産とする証券化商品が内包するリスクを察知できなかったことだという。これはまったくその通りで、筆者も長くわが国の銀行のリスク管理システムに携わってきたが、カウンターパートである銀行のリスク管理担当者にとっての最大の障害は経営者の理解を得ることだった。また、金融庁に何度か呼ばれたが、彼らの悩みは、金融検査を行う検査官にリスク管理の核となる金融工学、数理統計技術をどうやって教育するかということであった。

ことほどさように、現在の金融商品は複雑になっており、特別な訓練を受けないとなかなか理解しがたくなっている。これらの経験を踏まえると、アメリカ金融機関の経営者が証券化を理解していなかったことは十分に肯ける。そうであれば、どのようなことになるか。先の識者の意見に戻れば、サブプライムローンを世に広めたのは、ブッシュ政権が低所得者層にマイホームを持たせようという政策があったからだという。それが正しいとすれば、金融機関の経営は彼らが置かれた環境に従うということになってしまう。

経営者には利益を上げるという株主からの強いプレッシャーが存在する。持てる経営資源を最も効率的に使うというのがコーポレートガバナンスに沿った経営者のミッションだ。そして、ここが問題なのだが、経営能力の評価尺度は株価であり、端的には利益額になる。結局、金融機関の経営者は置かれた環境の中で最大限に利益を追求し、一方では目の前に存在する穴には気が付かなかったという構図だ。「音楽が鳴っている間はダンスは止められない」というCITIのCEOであったチェック・プリンスの言葉がこの情景を的確に表している。

2. 問題は評価尺度にある

金融工学が難しいのは事実だし、それをインプリメントしてシミュレートした結果を正確に判断できるのは、その道の専門家に限られる。とはいえ、CROなどというポジションを設置し、銀行全体のリスクに目を光らせる体制を取っていたはずだ。

金融工学が実務に使われるようになったのは1980年代から。以来20年以上の時間が経っており、人材育成には十分な期間だ。また、過去いくつもの失敗が顕在化したことで、銀行経営者が学習する機会は十分にあった。それにもかかわらず、ほぼ例外なく全大手金融機関が同じ穴に落ちたということは、コーポレートガバナンスの仕組みの問題ではなく、考え方に問題があったから有効に働かなかったことを暗示している。

経営のマターだが、金融機関に限らず企業の評価は株価で行われる。その理由は、株価は将来の可能性も織り込んだ現在価値を表しているからということだ。しかし、現実には将来の可能性を客観的に評価することは難しい。例えば、新技術の開発につぎ込む研究開発費がどれだけの果実を生み出すかは経営者とて分からない。したがって、企業評価は直近の数値によってなされているというのが実態だ。足下を見ても大きな損害を出すというニュースが流れれば株価は暴落するし、逆もまたしかりだ。一般株主が理解しやすいこともあって、利益額やROEによって評価がなされ、経営者はそれに励むことになる。この評価尺度に則った経営に対して待ったをかけなかったのがアメリカ型コーポレートガバナンスである。

元々金融ビジネスは、環境に規定されやすい性格を持っている。まったく新しい独自のビジネスを作り出すことは難しいし、新ビジネスが生み出されたとしても金融機関を選ぶことは無い。言い換えると公共的な性格が強い。そこに利益極大を目指す経営スタイルを持ち込んだことに矛盾があったのかもしれないが、それを制止できなかったコーポレートガバナンスに問題があったと結論付けてよいだろう。

3. 日本型コーポレートガバナンスはどうか

多くの日本の経営者が主張してきたコーポレートガバナンスがある。それを仮に日本型コーポレートガバナンスと呼ぶことにするとして、それは今回の危機を回避できただろうか。これは甚だ疑問である。推測できることは、徹底的な利益追求はしなかったから危機の規模は小さかった可能性はある。しかし、それは国民性によるところが大きい。経営マターとして捉えるならば、意思決定の遅さが幸いすることと、贔屓目に言えばバランス感覚を大切にすることだろう。とはいえ、日本型コーポレートガバナンスが危機そのものを回避できることは無かったと考えるのが妥当だ。

さらに最近、派遣切り、そして正社員の整理などのニュースが流れるが、雇用を大切にするとしてきた日本型コーポレートガバナンスが胸を張って正しいといえるだろうか。100年に1度の危機ということは誰しも認めることであるが、その中で日本型コーポレートガバナンスの目指すところはどこにあるのだろうか。年末に派遣社員の契約を破棄する、あまつさえブラジルからの労働者を放り出すなどということを見ると、少なくとも国家の行く末を見ているとは言い難い。2002年から6年間にわたる好景気で蓄積してきた内部留保には手をつけないということは、従業員よりも会社の存続を優先するということだ。経営資源を効率的に使うことは当たり前として、そこから生み出される果実は何に使おうというのだろうか。

4. 再生するのは誰か

さて、最後にこれからのコーポレートガバナンスはどうなるのだろうかという点に触れておく。筆者は否定的だが、現在のコーポレートガバナンスがそのまま維持される可能性も否定できない。また、現在の市場原理型資本主義がどうなるかということに関わってくる。しかし、恐らくアメリカ型、日本型いずれのコーポレートガバナンスも修正されるだろう。その理由は危機の防止が重要になるということにある。

世界中で数兆ドルの需要不足が生じるとも言われており、各国とも需要を起こす政策を取っている。それはやがて効果を表し景気は浮上することになる。その後のことだが、断言してよいと思われるのは、再びバブルが生じて破裂する。それをどこまで防止し最小限の影響に抑えるかが最大の課題だ。

この問題は個別企業というよりも政府の仕事だろう。しかし、今回に危機を見ていると、個別企業の経営には必ず行き過ぎが生じる。殊に環境に既定される部分が多い金融業はその傾向が強い。経営の怠慢を指摘するよりも行き過ぎを抑止すること、それがこれからのコーポレートガバナンスの大きな役割になるのではないか。その一点だけをとってもコーポレートガバナンスの見直しは必須である。

それがどのような形になるか。筆者の希望も交えて言うと、それはモデルの提示だろう。利益率のように数字が大きければ大きいほど良いというのではなく、適正な数字で表現されるモデルになるのではないだろうか。なぜモデルの形をとるのか。それはグローバル時代のスタンダードでなければならないからである。

今回分かったことがもう1つある。それは、国境を越えた行政機関の必要性だ。それが現実には難しいとすると、ルールや規制をできるだけグローバルなものにしておかなければならない。どの国もが一定の理解を示すものとなると、それは精神でとどまらず、具体的な形となったモデルである。モデルの世界では、それを構築する能力、そしてモデルの基となるデータの蓄積はアメリカが圧倒的な強みを持つ。皮肉なことだが、コーポレートガバナンスは今回の危機の震源地となったアメリカの手によって再生されることになるのだろうか。

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佐々木取締役顔写真

福井 和夫(ふくい かずお)
(株)富士通総研 顧問
70年富士通に入社。95年富士通総研取締役研究開発部長に就任。98年に同総研取締役金融コンサルティング事業部長兼研究開発部長、2005年常務取締役第一コンサルティング本部長、2008年6月より顧問に就任、現在に至る。他に、早稲田大学ビジネス情報アカデミー講師、日本コーポレート・ガバナンス・インデクス研究会(JCGR)監事も勤める。著書に「新たな制約を超える企業システムの構想」「ネットワーク時代の銀行経営」(富士通出版)等がある。