2019年01月18日更新

物流危機への処方箋 第05回 海を渡った鉄道貨物

山田経営コンサルティング事務所代表 中小企業診断士 山田 健 氏

1. 津軽海峡冬景色の駅と港

2016年3月、北海道新幹線の新青森駅-新函館北斗駅間が開業した。2031年には札幌まで延長される予定である。
その直前、仕事で青森を訪れる機会があった。新幹線開業前とあって、街はまだ訪れる観光客も少なくひっそりとしていた。
青森港に足が向いてしまったのは、曲がりなりにも長年物流に関わっている者の習性でろうか。でも「自然に」というのは正確ではない。JRの青森駅は駅を降りればすでにそこは港の一部なのだから。
これは、両港が青函連絡船の発着場になっていたことに由来する。青森駅を降りるとそこには名曲「津軽海峡冬景色」にある。
「上野発の夜行列車降りたときから、青森駅は雪の中・・・私も一人連絡船に乗り・・・(作詞 阿久悠)」
の歌詞通りの光景が目の前に広がる。ホームから連絡船の乗り場は至近の距離である。
訪れる人も少ないその港の一角に、メモリアルシップとなった青函連絡船「八甲田丸」が、役目を終えた船体をひっそりと横たえている。

2. 海を渡った貨物列車

よく知られているように、1954年(昭和29年)に列島を襲った「洞爺丸台風」により青函連絡船「洞爺丸」が座礁・転覆し、1,139名という大きな犠牲を出したことをきっかけに、1987年(昭和62年)に青函トンネルが開通、青函連絡船は廃止された。ただ今回このテーマを取り上げたのは、この連絡船の歴史を語るためではない。鉄道貨物と青函連絡船の関係をご紹介したいためである。
青森駅から目と鼻の先の「メモリアルシップ八甲田丸」に向かう観光客は、船の手前の柵越しに海に向かって伸びる錆びた線路に気が付くことであろう。かつての青函連絡船に貨物列車を積み込むための引き込み線路である。


八甲田丸と引き込み線路

青函連絡船には貨物列車がそのまま乗り込んで海を渡ることができたのである。世界的にも珍しい「車両航送船」といわれるこの仕組みが開発されたのは1924年(大正13年)。船内には4本の線路が敷かれ、ワム型といわれる15トン積みの貨車を1列車43両積載することができた。コンテナ列車のコキ車なら19両。貨物駅から貨物列車がそのまま船内に乗り込み、海を渡ることができる「海陸一貫輸送システム」である。

ところで、一口に「車両航送」と言っても、これは決して簡単なことではない。貨車を船に積み込むには、陸上のレールと船の甲板に敷かれた線路を接続しなければならない。船の運航に支障のないよう、船の到着に合わせていち早く線路を接続し、貨車の積み換えが終わったら速やかに線路を切り離すことが求められる。停泊している船は波で前後左右に、潮の満ち引きで上下に動くので、本線と船の線路との間には揺れを調整する緩衝レールも必要である。

津軽海峡の荒波の揺れによる貨車の転倒を防ぐためには、船に固定用の装置が必要であるし、車両の連結器にも工夫が求められる。船尾には波の進入を防ぐため厚い扉が付いており航海中はしっかりと扉が閉められるようになっている。
青函連絡船にはこうした課題を克服するための当時としては最新の技術がふんだんに取り入れられているのである。

北海道と本州をつなぐ物流の大動脈を確保するために、1世紀近く前にこれだけの物流システムを築き上げた当時の国鉄の情熱と技術力には驚くばかりである。トラックドライバー減少の危機が迫る昨今、かつては間違いなく存在したこの圧倒的な鉄道貨物輸送力の復活に期待してしまうのは、ないものねだりというものなのであろうか。

参考リンク:「青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸」新しいウィンドウで表示

著者プロフィール

山田経営コンサルティング事務所
代表

山田 健(やまだ たけし)氏

Webサイト:http://www.yamada-consul.com/
流通経済大学非常勤講師

1979年 横浜市立大学 商学部卒業、日本通運株式会社 入社 。総合商社、酒類・飲料、繊維、アパレルメーカーなどへの提案営業、国際・国内物流システム構築に携わった後、 株式会社日通総合研究所 経営コンサルティング部勤務。同社取締役を経て2014年、山田経営コンサルティング事務所を設立し、中小企業の経営顧問や沖縄県物流アドバイザー、研修講師などを務めている。
主な著書に「すらすら物流管理」(中央経済社)、「物流コスト削減の実務」(中央経済社)「物流戦略策定シナリオ」(かんき出版)などがある。

山田 健 氏

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