2021年02月26日
軍事技術史に学ぶICT活用法 第13回 軍事技術を支えた科学者と組織 -総力戦における科学者と組織-
決断科学工房 眞殿 宏 氏
第一次世界大戦は、期間は4年と決して長くないが、犠牲者の数はそれまでの戦争と桁違い、双方で戦死者1千6百万人、戦傷者2千万人以上にあがる。死傷者数ばかりでなく、投入された資金、消費された資源・エネルギー、戦域の広さ、戦後の国家運営・国際関係に及ぼした影響、どれをとっても、それまでの戦争とは様相を異にするものであり、第二次世界大戦が始まるまで“大戦争(The Great War)”と称せられていた。
“総力戦”と言う言葉は、この戦争で独参謀次長を務めたエーリッヒ・ルーデンドルフ歩兵大将が1935年著した同名の著書「Der Totale Krieg(The Total War)」を嚆矢とし、その主張は「軍事指導者が国家を管理すべし」と言うところにある。しかし、これは広く受けいれられるものではなく、変じて直接的な軍事力だけでなく、政治力、経済力、資源調達力、科学技術力、生産力から宣伝力、思想面にまでおよぶ広範な国力を、動員・管理する体制を指すようになった。そして第二次世界大戦では原子爆弾に代表されるように、科学技術力が勝敗を左右する重要な因子になったわけである。本連載は、戦争遂行に於ける科学技術をテーマに縷々論じてきたが、今回はそこにおける、国家・軍事指導者と科学者の関係に焦点を絞り、これを企業経営におけるICT活用に投射してみる。
戦争における科学と技術
紀元前214~212年ローマとカルタゴの間で戦われた第二次ポエニ戦争シシリー島シラクサ(親カルタゴ)包囲戦ではアルキメデスが築城や投石器開発などで活躍している。科学者はこんな時代から戦争と深く関わっているのだ。第一次世界大戦は化学戦、第二次世界大戦は物理戦とも言われ、科学技術力の戦いだった。当然ここには多数の科学者・技術者が関わることになる。ただここで留意すべきは、科学技術と一括りになっていても、短期間に戦力化できる“技術”と深遠な真理を追究する“科学”では本来その役割は違うだろう。技術が具体的問題解決を主とするのに対しで、科学がより抽象域を対象にする学問であることを考えると、思わぬ事態に遭遇した時、科学の果たす役割は技術より柔軟性があるとも言える。
出典:Wikipedia フリッツ・ハーバー
兵器開発・生産に関わる技術者は、各国とも軍直轄の技術部門や工廠を始め、兵器メーカー、航空機メーカー、造船所に多数居たが、これらの人が国策や軍事作戦に直接かかわることはなかった。では科学者はどうだったろか?先に第一次世界大戦は化学戦と書いた。例えば、“化学兵器の父”と擬せられたのがカイザー・ウィルムヘルム協会(KWI)物理化学研究所長であったフリッツ・ハーバーが居る。空気中の窒素を分離、それを水素と反応させるアンモニア合成法を開発、ここから硝酸を誘導し爆薬の原料を確保したのである。それまで輸入品のチリ硝石に頼らざるを得なかったものを国内で調達できようにしたことは、戦争遂行に大きく寄与した。ただ、これらはあくまでも本務である化学研究の結果であって、戦略・国策と直結するものではなかった。また、国家戦略策定あるいは作戦に関わらなかったと言う点では英国の科学者も同様で、兵役に就いていても、軍研究機関に配属されるか、下級指揮官として戦場に在ったものが多い。これが一変するのが第二次世界大戦である。つまり科学・科学者が総力戦の重要因子となったのは第二次世界大戦からであったと言っていい。これをICTの世界と対比すれば、インターネット普及前とその後とみなすことも出来るのではなかろうか。以下では英・米を中心に独・日を含めた戦争指導者と科学者の関係を、実在の人物や組織を取り上げ、その特質を考察し、企業経営者とICT技術者・組織の在り方を論じてみたい。
チャーチルの顧問;リンデマン
出典:Wikipedia フレデリック・リンデマン
フレデリック・リンデマンはアルザス・ロレーヌ地方で生まれたドイツ人である(1886年生れ)。一家は早い機会に英国に移住し、フレデリックはギムナジウム(中高一貫校)入学時一人ドイツに戻り、ベルリン大学で物理学を学び卒業後もそこで研究活動を続ける。ここで英人留学生ティザードと友達になったことが、その後の運命に大きく関わっていく。この間ドイツでの兵役を避けるため国籍を英国に移している。第一次世界大戦が勃発すると帰国、王立航空技術廠で各種実験に取り組む(技術士官、パイロット)。戦後オックスフォード大学出身でそこに准教授として復職したティザードの伝で休眠状態にあったクラレンドン物理学研究所に就職、その再興に尽力する。
独・仏語に長け、スポーツも万能、特にテニスではウィンブルドンに進めるほどの力があった。このテニスがチャーチルとの縁を作ることになる。テニスを通じて上流階級・有名人に接近チャーチル夫人と昵懇になるのだ。
戦間期どこの国も軍縮を行い、国防予算を大幅に削減している。そんな環境下で発展していくのが航空技術である。島国英国にとってこれほど不安なものはない。戦時海相を務めたチャーチルは防空にひときわ関心が強く、これを政争の材料として利用しようと目論む。その協力者として、物理学を修め空軍にも勤務しパイロット資格もあるリンデマンは適材だった。学者として超一流ではないが、オックスフォード大教授、研究所長としてその再興で示した手腕、王立協会会員、と言う実績・資格は有力政治家の科学技術顧問として申し分ない。
開戦前は個人顧問、開戦時は海相科学技術顧問、首相になると科学技術および経済顧問。さらに、戦争閣議の正式メンバーにするため、爵位(チャーウェル卿)を与え貴族院議員にし、財務省主計長官(Paymaster General;閣僚)に登用するほど欠かせぬ側近になっていく。チャーチルが如何に頼りにしていたかがこのことからうかがえる。
だからと言ってチャーチルは彼を妄信したわけではない。リンデマンが科学技術の細部に必ずしも精通していないことを知ってくると、そこは専門家を重要会議に同席させ、遠慮なく発言させて、リンデマンとは異なる意見を採用することもしばしば生じている。この点でもチャーチルには人を見る眼があるのだ。
しかし、学者や軍人・官僚には好かれず、虎の威を借る嫌味な奴と酷評される。それでは何故傑出した国家指導者であるチャーチルがそんな男を重用したのか?それはチャーチルに決して自説を押し付けず意見を述べるだけだったこと、難解な技術・科学事項を分かりやすく簡潔に説明することに長けていたこと、そこには統計やチャートが上手く利用され、“Sole Decision Maker(孤独の決断者)”と言われたチャーチルの意思決定スタイルにぴったりだったことにある。ここは経営トップとICT担当者の関係を考える上で参考とすべき点であろう。
防空戦略のかなめ;ティザード
出典:Wikipedia ヘンリー・テイザード
ヘンリー・ティザードは海軍測量士官の長男としてケント州で生まれる(1885年)。父の期待も、本人の希望も学費を要しない海軍兵学校へ進むことであり、首尾よく合格するが眼を患い退校せざるを得なくなる。しかし数学に秀でていたので特待生としてパブリックスクールに転校、ここからオックスフォード大学に進んで化学を専攻する。大学でも成績優秀、卒業後文部省給付生としてベルリン大学で物理化学の研究に当たっている時リンデマンと出会う。大戦開始の年の5月オックスフォードに戻り、開戦後砲兵隊に入隊、対空射撃を担当したことから航空に興味を持ち、飛行実験隊に転属志願、視力に問題を抱えながら努力してパイロット資格を得る。終戦後オックスフォードに戻り熱力学担当の准教授になっていたが、1920年、戦時中軍官学で構成された科学工業研究院の再編成に際して、次長として声がかかり、学者か公務員かの選択に悩んだ末それを引き受け国防省で働く道を選ぶ。ここで優れた管理能力を発揮「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」の評価を得て、1927年には院長に昇格する。1929年、この名声と能力に眼を付けたのがインペリアル・カレッジ、在ロンドン国公立カレッジの寄り合い所帯だったそれを改編統合するために学長のポストを提示する。院長就任からわずか2年、折しも社会は世界大恐慌の中にあり逡巡するが、最終的にこれを受け、後年「もしインペリアル・カレッジが30年代に彼を欠いていたら今日の地位と名声は無かったろう」と言われるほど学校経営に力を発揮する。
同じ1929年チャーチルは当選したものの保守党は敗北、財務大臣であった彼は無役となり、政治家として“荒野の10年”が始まる。独ナチス党の興隆を見ながら、存在感を維持するため、政府の防空政策を声高に批判し政争を仕掛けていく。
1933年ついにヒトラー政権誕生、ヴェルサイユ条約は破棄され軍拡が始まる。強烈なインパクトは密かに進められてきた空軍力である。英国では三つのグループがこれへの対抗策を検討し始める。第一は英空軍参謀総長をトップとする軍人グループ、第二は三軍全体を対象とする議会の国防委員会(Committee of Imperial Defense;CID)、第三は航空省(空軍はこの省に属する)の技術者を中心としたグループ。技術者グループのリーダーは技術局長のヘンリー・ウィンペリス、1935年ティザードや次項で取り上げるブラケットを含む学識経験者で構成される防空科学調査委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense;CSSAD、別名ティザード委員会)を立ち上げ、レーダー開発を核とした防空システムの研究を始める。ウィンペリスがティザードを選んだのはそれまでの大学と学者管理の実績に依る。超一級の科学者たち(二人のノーベル賞受賞者を含む)が専門外領域にもかかわらず、斬新で優れた防空システム(個々の機器・兵器開発ばかりでなく全体運用システムとして)構築に寄与することになる。
第一の軍人グル-プは狭義の戦略・戦術、第二のCIDは国防政策全体、第三のCSSADは技術開発、と一応役割分担は分かれているが、いつの時代、どこでも新分野は縄張り争いが絶えない。目立ちたがり屋のチャーチルはCSSADの活動を耳にすると、そこにリンデマンを送り込むが、メンバーから総スカンを食いやがて排除される。すると今度はCSSADの機能をCIDに取り込みCSSADを骨抜きにしようとする。かつての親友リンデマンとティザードはこうして不倶戴天の敵(Bitter Enemy)に変じていくのだ。英国の戦史や著名人の回顧録でも二人の関係はしばしば取り上げられが、リンデマンを好意的に著すものは少ない。しかし、ティザードの政治に対する無関心さ・配慮不足を難ずるものもあることから、そこにティザードの限界も垣間見える。ここはICT専門家が経営者・上級管理者と接する際留意すべき点だろう。
ティザードはこのような横やりにもめげず防空システム開発に邁進、英独航空戦(Battle of Britain)にそれが間に合い、これに勝利する。その時の首相はチャーチル、その功を認め一等勲爵士(Sirの称号)に叙している。一時期航空省科学顧問(中将待遇)を外れ訪米軍事科学ミッション代表なども務めるが、戦後国防省主席科学顧問に復帰、1952年までその職に在ったことから、有能な科学者の姿が浮かんでくる。
計算尺で戦った男;ブラケット
出典:Wikipedia パトリック・M.S.ブラケット
パトリック・M.S.ブラケットは1897年ロンドンの株式仲買人の子として生をうける。パブリックスクールへ進める経済環境ながら軍人をこころざし、海軍兵学校を卒業、第一次世界大戦では士官候補生(砲術)として、独海軍とのユトランド沖海戦、フォークランド海戦に参戦している。終戦後海軍からケンブリッジ大学に派遣され物理学を学び、退役して物理学者ラザフォードの下でさらに研究を重ねてマンチェスター大学の物理学教授に転じる。この間、穏やかな社会変革を目指すフェビアン協会会員となるほか、ケンブリッジ大学選挙区から労働党候補者に推されるが、政治に深入りしたくないとの理由でそれを辞退している。戦後ノーベル物理学賞を受賞しながら容共主義者とみられ、原子力関連国策推進の場から疎外される芽はこの時代に萌していたと言える。
ブラケットの軍への関与は航空省ティザード委員会メンバーとしてスタートする。防空システムの核心技術はレーダー開発・実用化だが、初期の製品は現場適用には種々の問題が生じ、既存の専門技術知識では対応できないことが多い。ここにブラケットの活躍の場があった。
レーダーが実戦配備されると、敵味方機やノイズの識別、操作員の採用や訓練、迎撃戦闘機の発進・誘導、高射砲の配置や発射タイミング、撃墜情報の分析、これらに数理を活用して適正化を図る。その中心人物がブラケット、のちに“OR(Operations Research;作戦研究)の父”と称せられるようになる。
陸軍での高射砲配置・操作指導は顕著な改善効果をもたらし、各陣地は彼の来訪を待ちわび、巡回する指導チームは“ブラケット・サーカス”と名付けられるほど有名になる。これを見た古巣の海軍は早速科学顧問として彼を招聘、対Uボート作戦にその知恵を借りることになる。護送船団の規模や組み方、哨戒機のパトロール・ルートや頻度、哨戒機の稼働率向上、爆雷の設定深度や投下方法などの課題解決にあたり着実に成果をあげていく。
英独航空戦では戦闘機軍団、対Uボート作戦では沿岸航空軍団と言う二つの空軍実戦部隊はORの効果を高く評価しているが、もう一つの実戦部隊爆撃機軍団は同じようには行かなかった。根本問題は攻めか守りかにある。独本土攻撃と言う観点からすれば空爆が唯一の攻撃手段である。一方で食料や戦略物資の確保は守り(生き残り)さらには反攻のために不可欠だ。爆撃機は哨戒機としても有用なので、どちらを優先すべきかが高度な国家戦略の選択肢となる。ブラケットは数理解析で夜間絨毯爆撃策の効果に疑問を提示し「もっと爆撃機をUボート作戦に」と訴える。また上陸作戦が近づくと内務省顧問として空爆被害分析を担当していたマンチェスター大学動物学教授のソーリー・ザッカーマンが大都市夜間絨毯爆撃よりも輸送路(鉄道、操車場、道路、運河)あるいは軍事拠点を重点的に狙う戦術爆撃が作戦遂行にはより効果的とこれも数理解析を基に主張する。チャーチルはブラケットやザッカーマンの意見を取り入れて妥協を図るが、爆撃機軍団長アーサー・ハリスは決して納得したわけではなく、戦後になっても「我々は計算尺で勝利したわけではない」と言い続けている。軍の中でブラケットらのやり方を「計算尺戦争(Slide rule War )」と揶揄していた者がいたからだ。
三軍の作戦遂行で受けた高い評価は、物理学と言う専門分野とは全く関係がない。そこにあるのは、基本素養としての数学と科学者としての問題解決手法である。 AI至上主義者の中には「データだけあれば十分、仮説も理論も不要」と暴言する者もあるが、ICT活用には冷徹な現状分析と現場でのきめ細かな観察・調整が不可欠であることを「計算尺戦争」から学びたい。
戦後著したものの中に「戦時中ほど面白い仕事をしたことはない」とあるから、アマチュアリズムを尊び、“戦争と道楽だけは真剣になる”英国人の典型でもあったのだ。1948年宇宙線研究でノーベル物理学賞受賞、1965年王立協会会長、1969年一代男爵位叙位。超一流の科学者である。
科学諜報と暗号解読
正面戦力と資源や生産力ばかりが総力ではないという観点において着目すべきものに情報収集分析力がある。その代表は諜報と暗号解読、ここにも英国は伝統的に優れたものがある。著名作家のサマーセット・モームやグレアム・グリーン、あるいは最近亡くなったスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレも一時期MI-5(国内治安)、MI-6(海外諜報)に所属している。第二次世界大戦におけるこの分野における代表人物は二人、世界初と言える科学技術専門の諜報員、R.V.ジョーンズ、それとコンピュータ/AIの生みの親であるアラン・チューリングだ。
出典:Wikipedia Wikipedia R.V.ジョーンズ(左)
R.V.ジョーンズは1911年生れ。オックスフォード大学で物理学を学び1934年に博士号取得、1936年航空省管轄の王立航空研究所で航空機赤外線検知の研究に当たっていたが、第二次世界大戦直後の9月航空省諜報部科学担当副部長職に就く。
最初の業績は、独爆撃機の“電波誘導装置”調査とそれへの対抗策である。多くがその存在を疑問視する中、英独航空戦(Battle of Britain;1940年秋開始)前から誘導電波存在の確認、独電波技術調査、誘導方法推定を行い、開始後は誘導基地および連携する爆撃機基地の特定、使用電波探査、作戦暗号解読、誘導電波に対する妨害・欺瞞策の検討・実施、爆撃実績の解析、などの対策を講じて、戦いを勝利に導いたことである。攻勢に転ずると独防空システムであるカンフーバー(防空司令官の名前)ラインの調査にあたり、それへ対抗策(特に地上レーダー妨害、独夜間戦闘機の無線電話・機載レーダー妨害)を次々に考案、夜間戦略爆撃の損害軽減に貢献している。この背後には彼に対するチャーチルの絶大な信頼感が在り、戦後アバディーン大学物理学教授に転ずる際、彼を推挙している。また、1946年バス勲章(3級;サーの称号)を授け、戦時中の功を称えている。
ジョーンズに比べるとチューリングの知名度は桁違いに高い。数年前公開された「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」は彼の戦時の活躍を主題にしたものであるし、今年(2021年)発行される新50ポンド紙幣にその肖像が使われることになっている。
出典:Wikipedia アラン・チューリング
チューリングは1912年生まれ。パブリックスクール時代から数学に傑出し、ケンブリッジ大学を経て米国プリンストン高級研究所で研究活動を続け、1938年博士号を取得した数学者、計算機学者そして暗号学者である。第二次世界大戦開戦で政府が暗号解読者を募集すると直ちに応募、終戦まで政府通信本部暗号学校(Government Code & Cypher School;GSCS;所在場所からブリッチリーパークと呼ばれる)に籍を置き、独3軍および外務省で使われていた高度な暗号システム“エニグマ”の解読器(一種の電子計算機)を開発、2千人の操作員を動員、毎月9万通に近い膨大な暗号化通信文の解読を可能にする。エニグマは用途先(陸・海・空軍)によって異なり、また機械の心臓部である文字変換用回転盤の組合せ・個数を変えるので、タイミングよく暗号解読するのは至難の業だったが、彼の頭脳がそれを次々と解決していく。
実戦で専ら対応したのはUボート情報、解読情報は早ければ早いほど新鮮、連合軍は1~2時間以内にそれを入手していたが、時には15分以内のこともあり、解読効果は終戦を2~4年早めたとも評価されている。戦後その功で大英帝国勲章を授与されるが、同性愛者であったことが当時の法律に触れ、ホルモン療法を強いられ、気力・体力に異変をきたし、1954年自死している(謀殺説もあり)。しかし、2009年政府は誤りを認めて公式謝罪、名誉回復を果たしている。
組織で戦う米国
出典:Wikipedia ヴァネバー・ブッシュ
海峡を隔てて長年欧州大陸と対峙し、それを防壁としてきた英国にとって、発展する航空技術は地続きになるような恐怖感を与え、勃興するナチス空軍はそれを加速させた。しかし、大西洋の反対側にある米国がその危機感を共有するまでにはいささか時間を要し、科学者動員が検討されるのは大戦も2年目に入った1940年からである。4月ドイツ軍の北欧侵攻を見たカーネギー研究所のヴァネーバー・ブッシュ(Vannevar Bush)所長は米国科学界をリードする3人の仲間とルーズヴェルト大統領に科学者動員案を献策する。案の骨子は「国家のあらゆる科学技術のエキスパートを集めて、国防のために利用する」と言うもの。共同提案者はカール・コンプトンMIT学長、ジェームス・コナンハーバード大学学長、フランク・ジェットベル研究所所長、と錚々たるメンバーだ。大統領はこの献策を即受入れブッシュに委員会を設立するよう命ずる。こうして6月27日発足したのが国家防衛研究委員会(National Defense Research Committee;NDRC)である。メンバーはブッシュを含む上記4人の他陸海軍代表各1名、カーネギー研究所長それに法律家(特許、機密保持)1名の計8名で構成され、本部はカーネギー研究所(ワシントンDC)に置かれた。また、既に軍事技術と密接に関わる、国家航空諮問委員会(NACA;NASAの前身)やウラニウム委員会などが存在したため、それらも統括する大統領直轄の科学研究開発会議(The Office of Scientific Research and Development;OSRD)が同時に設置され、議長はブッシュが兼務する。つまり、ブッシュは米国兵器研究開発全体を取り仕切ることになるのだ。
OSRDは政策決定、NDRCはエージェントあるいはコンサルタントとして全般の管理を担い、いずれも研究開発そのものは担当しない。実務はその下の軍や政府研究機関、大学、企業に委託する形式を採る。NDRCの重要な役割は、予算の確保・配分、課題の優先度付け、仕事の委託先決定それに科学者(学生を含む)の動員策である。これによって最終的に3万名の科学・技術者(科学者6千名)が200におよぶ兵器開発に携わることになる。それらは原子爆弾からレーダー、近接信管、爆撃照準器、ペニシリンやサルファー剤あるいはOR適用にまでおよぶ、いずれも勝敗を決した兵器や技術である。
OSRDの設立は「歴史上はじめて科学者を軍人の単なる相談役以上の者と認める決定だった」と言われ、その機能は現在の米国科学基金(National Science Funding;NSF)に受け継がれ、米国先端科学研究の要となっている。
ブッシュ(1890年生れ)は、タフツ大学で電気工学を専攻、GEを経てMITに進みそこで博士号を取得、電気工学科教授時代兵器関係のベンチャー企業(現在のレイセオン社)を設立・運営、さらに工学部長も務め、その後カーネギー研究所に迎えられている。アナログコンピュータの開発などの業績はあるものの超一流の科学者ではないが、研究開発管理者として優れ、戦後“米国科学の守護神(Patron Saint)”と称えられることになる。
軍事技術への科学者活用と言う視点で見ると、英国は個人としての力量および人間関係で要所に適材が配されたのに対し、米国の場合は組織としてそれに取り組んだことが大きな違いとして浮かび上がってくる。総力戦と言う意味では明らかに米国流が名実を伴っているが、これを企業におけるICT施策に援用する時、企業文化、規模、市場等を勘案して、どちらを選ぶかは熟慮すべき点であろう。中堅・中小企業の場合英国流がより適切な場合もありそうだ。また、英米の違いだけに眼を奪われてはならない。両者に共通しているのは科学者が現場に出かけ、一体となり新兵器や手法の定着化に努めたことである。特に、米国の若手科学者は最前線で兵士とともに戦い、「単なる軍人の相談役ではなかった」との評価はこれが決め手となっている。
ヒトラーとその科学者たち
1918年第一次世界大戦終戦から1945年の第二次世界大戦終了までの28年間、独のノーベル賞受賞者(物理、化学、医学・生理学)は18名、対する英13名、米16名。必ずしも彼らが軍事と直結したわけではないが、ヒトラーの科学者たちと政・軍トップとの関係は如何様だったのだろうか?
ナチス政権と科学者を論ずるとき避けて通れないのはユダヤ人問題である。アインシュタインはナチス政権誕生の1年前、1932年に英国経由で米国に移住している。先述したフィリッツ・ハーバーはキリスト教徒でありながら、半分ユダヤの血が混じっていたため、カイザー・ウィルムヘルム協会(KWI)を追われ英国を経てスイスに亡命している。そのKWI理事長であったマックス・プランクもユダヤ人研究者をかばったためにその地位に留まることは出来なかった。いずれもノーベル賞受賞者である。この迫害で、優れた核物理学者の1/4が英米に逃れ、のちに原爆開発の中核メンバーになっている。
ユダヤ人問題と重なるもう一つの問題は、ナチスの持つ反知性主義である。ヒトラーを始め、国家元帥ゲーリング、副総統ヘス、親衛隊隊長ヒムラー、外相リッペントロップなど、みな軍学校か専門学校の教育しか受けておらず、実学重視の傾向が強い。例外は、科学技術の顧問格であったアルベルト・シュペアー、戦争末期軍需相に任じられ生産力回復に貢献するのだが、本来建築家であったことから科学者との関係はそれほど深くない。このような組織環境から、直ぐに役立つ技術には注力するが、抽象的で長期を要する研究活動に従事する科学者への関心は極めて低かった。また、学界自身もこの傾向に影響され、理論より実験を重んじる風潮が強かった。特に核物理学はヒトラーから“ユダヤ人の物理学”と蔑まれ、ハイゼンベルクやオットー・ハーン(核分裂の発見者)などのノーベル賞受賞者も直接戦争推進に寄与する機会は無かった。この科学軽視とも言える組織文化の究極は、人種論・優生学に傾倒し、断種やユダヤ人大量虐殺につながった似非科学だろう。科学界と政権の間に埋めがたいギャップがあったことを示している。また、のちに米国NASAで宇宙開発を主導することになるフォン・ブラウンが進めていた弾道ミサイルV-2開発が、種々の技術課題解決のため大幅に遅れる。ブラウンが時に月世界探検の夢などを語っていたのを秘密警察(ゲシュタポ)が聞きつけ、サボタージュと誤解して逮捕・拘束している。これなどもナチスと科学の親和性のなさを象徴する事件だ。
多くの優れた科学者を要しながら、個人ベースでも組織としてもそれを全く活用できなかったのがナチスドイツの実態であった。ここで学ぶべきは組織知能(ICTリテラシー)を高め、それを生かせる企業文化の醸成と言うことである。
日本の科学者は?
出典:Wikipedia 八木秀次
さて、我が国である。優れた兵器開発技術者は零戦の設計者堀越二郎を始め、造艦の権威(技術中将)で東大総長も務めた平賀譲など多数技術史に名前を残している。ただこれらの人々は明らかに先述した英米科学者とは違い、ひたすらその専門分野で優れた実績を残した“技術者”であり、戦争遂行政策策定・実行において大所高所から国に影響をおよぼした人物とは言えない。科学者として、軍事技術に関与した田中館愛橘(東大理学部教授、創設時の航空研究所顧問);航空工学、長岡半太郎(阪大総長、帝国学士院院長)・仁科芳雄(理化学研究所所長);核物理学、八木秀次(阪大総長、技術院総裁);電子工学などが浮かんでくるが、時代がそぐわなかったり、活躍の場が限られたりで、国策や戦略レベルで軍事技術に関わることはなかった。また、米国のように組織で取り組む点でも見るべきものがない。1942年東条内閣の下で発足した技術院は「科学技術に関する国家総力を綜合発揮せしめ科学技術の刷新向上、就中航空に関する科学技術の躍進を図る」ことを目的とし、総裁に八木を含め3代工学博士を任命しているが、何ら実績を残すことなく終わっている。この背景には、兵科出身者の発言力や権限が圧倒的に強く、技術者は用兵者の下に置かれ、科学者が戦略に介入する場など皆無だったこと、陸海軍がそれぞれ独自の研究開発にこだわったことがある。要は、用兵と科学技術は主従関係にあり、科学技術を当初から戦略・作戦・戦術に組み込む姿勢が見られない。
その結果は、前回の“電子技術”でも触れた、戦後占領軍作成のレーダー開発に関する報告書「日本での科学情報活動の調査に関するレポート」の通りである。いわく「およそOSDRの計画に匹敵するような、レーダー研究は見当たらなかった。多数の研究機関に分散している科学者の能力向上や、動員、研究の分担に関する総合的な計画は皆無であった。日本軍の高官が、現代的な戦略兵器の中でいかにレーダーが重要であるかを早期に認識できなかったことが、レーダー開発の遅れの根本原因である」と結んでいる。つまり、科学技術は総力足りえなかったのである。
ICT施策へのメッセージ
- 技術進歩と利用状況変化の速いICT、経営者・管理者は最新情報を入手・理解する姿勢を持ち、そのための体制を整えておきたい。個人重視の英国型、組織で戦った米国型を参考に、自社情報システム部門、外部ブレーンやコンサルタント、取引先ICTベンダーなどの組合せを、企業実態に合わせて考える。
- 情報システム部門はチャーチルに対するリンデンマンの行動から学びたい。専門知識を欠くトップにとって、業界用語や略語が親しみと理解の敷居を高くする。業界常識も他部門では非常識、謙虚に疑問に応え、自説を押し付けず意見を述べる、難解な技術・科学事項を分かりやすく簡潔に説明する、そこには統計やチャートが上手く利用する。
- ICT技術者は、ブラケットや米科学者のように現場に出て一緒に作業し、システムを使えるようにし、ユーザーの信頼を得る。
- ティザードやブッシュは超一流の科学者と言うより、科学管理者として突出していた。人材発掘・適材適所、プロジェクト管理やトップとのコミュニケーション能力がそれらだ。情報システム部門リーダーが学ぶことは多い。
- ICT担当者はとかく“オタク”視されがちだ。ジョーンズやチューリングは政治家や軍トップから見れば同じようなところがあった。しかし、チャーチルはそこをしっかり見ている。経営者・管理者は専門性を正当に評価してやる姿勢を持ちたい。
- 科学力の総力戦化に英米が成功した最大の要因は、科学の力を最初から戦略・作戦・戦術に組み込んで計画・検討・実施したことにある。日独にそれは無かった。経営計画があってそれを受けたICT施策を採るのではなく、計画段階からICTを包括して検討することが肝要である。
-完-
本稿をもって、12テーマ(13回)にわたり連載してきました“軍事技術史に学ぶICT活用法”を終えます。途中ホームページの刷新などあり中断時期がありましたが、長きにわたりご覧いただきましたことに感謝いたします。有難うございました。
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軍事技術史に学ぶICT活用法【連載記事】
- 第01回 なぜ軍事技術史か ~時代の最新軍事技術利用を企業におけるICT活用と対比して、シリーズ解説する背景を総論として述べる~
- 第02回 戦略を考える ~戦略を代表する軍事用語とICT活用の関係~
- 第03回 新軍事技術戦力化のプロセスは効果的ICT利用に重なる
- 第04回 新兵器評価のポイントは技術革新性や性能ばかりではない
- 第05回 新兵器もICTツールも環境によって選び利用することが肝要
- 第06回 新兵器が戦力になる上でリーダーが果たした役割はICTも同様
- 第07回 戦いの場を空に広げた新兵器、その発展過程から学ぶことは多い
- 第08回 陸戦兵器の主力である戦車、成否の決め手は適材適所と運用術
- 第09回 弱者の兵器が戦略兵器に変身するまで。戦略・作戦・戦術の独創性が決め手
- 第10回 戦争における数理応用をたどり、経営意思決定への活用を探る(その1)
著者プロフィール
決断科学工房
代表
眞殿 宏 氏
東亜燃料工業(現東燃ゼネラル)、東燃システムプラザ(株)営業部長、同社代表取締役社長(10年間)。その後、社長退任し、横河電機(株)海外営業本部(現海外事業部営業本部)顧問就任。海外精油所(主としてロシア)のIT近代化コンサルティングに従事。
現在はブログなど趣味のほか、意思決定を研究する決断科学工房代表。
所属学会:経営情報学会、OR学会(フェロー)、化学工学会。
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