Digital Disruption Tech(トレンド解説)

第1回 キャッシュレス社会

キャッシュレス化は日本の社会課題を解決するのか

「消費税増税対策として、キャッシュレス決済利用者に5ポイント還元」――。
「ネットワーク障害でスマホ決済アプリが使用不能」――。
「スマホ決済アプリPayPayが100億円還元キャンペーン」――。
「PayPayに不正利用、セキュリティの甘さからクレジットカード情報流出?」――。

経済産業省は2018年4月に公開した「キャッシュレス・ビジョン」の中で、「2025年にキャッシュレス決済比率 40%を目指す」と宣言しました。2017年6月に政府が閣議決定した「未来投資戦略 2017」で掲げたキャッシュレス決済比率 40%達成の目標時期は2027年でした。1年足らずの間に目標時期を2年前倒すことを決めたのは、キャッシュレス社会への移行を早めることが、日本が抱えるいくつもの社会課題解決と国力の向上につながると判断したからでしょう。

この宣言に後押しされるように、2018年後半はさまざまなキャッシュレス推進活動が日本中で実施されました。米国で展開中のレジ無しスーパー「Amazon Go」同様に、利用者の振る舞いをカメラなどのセンサーで認識し、どの商品を購入したのかを自動判定して決済する「レジ無しコンビニ」の長期間の実証実験が開始されたり、“キャッシュレス店舗”をうたって現金支払いを受け付けない天丼屋さんが登場したりしました。

JR赤羽駅のホームに設置されたキャッシュレス実験店舗 店内に入った利用者の行動をカメラなどのセンサーで分析し、何を購入したかを自動認識する。入場と決済・退場は、交通系ICカードをゲートにかざすことで実行する
大江戸てんや浅草雷門店 現金支払いを受け付けないことを入り口脇の看板で案内している。クレジットカード、電子マネー、交通系ICカードのほか、大半の中国人が所有するスマホ決済サービス「支付宝(Alipay)」と「微信支付(WeChat Pay)」にも対応する

自治体の動きもありました。福岡市では屋台を含むさまざまな施設や店舗でキャッシュレス決済をできるようにするプロジェクトが進められ、神奈川県は税金をスマホ決済で支払えるようにすることを発表しました。

そして、11月から12月にかけて起こったのが冒頭で紹介した出来事です。キャッシュレス社会の光と影を強く印象づける出来事だったと言えるでしょう。課題はいろいろありますが、日本はキャッスレス社会に向けて歩みを早めていることは間違いないようです。

それではなぜ政府は日本をキャッシュレス社会にしたいのでしょうか。その目的は大きく三つあります。

第一は人手不足対策に代表されるさまざまな社会課題を解決することです。現金を扱うことは、それに付随するさまざまな業務が発生します。お釣りの手配から売上金の安全な保管から始まり、チェーン店舗等では売上金の集金業務が大きな負荷となっています。また現金のやり取りは匿名性が高いので、犯罪や不正を防ぐために何らかの特別な仕組みが必要になります。こうしたことから、キャッシュレスが徹底すれば、現金の取り扱いに関する業務がなくなることに加え、そこで生まれる犯罪もなくすことができます。

実際、キャッシュレス先進国のスウェーデンでは現金が街中から消えたことによって現金強奪を目的とする犯罪と、現金輸送という仕事もなくなったそうです。また、国を挙げてスマホ決済サービスの浸透に取り組んで大きな成果を上げているタイでは、大手銀行のサイアム商業銀行(SCB)が2018年1月に「今後3年間で支店数を3分の1に減らす」と発表し、株価を上げました。モバイルバンキングをはじめとする業務のデジタル化を進めることで、従来型の銀行支店を2020年までに1153店から400店に減らし、従業員も約半分にするそうです。

第二は、デジタルテクノロジーを活用した新たなイノベーションを生み出すことです。少し前までのキャッシュレス決済はクレジットカードが主流でしたが、最近は金融とデジタルテクノロジーを掛け合わせた金融サービスを生み出す「Fintech」という産業トレンドの発展により、スマホアプリやクラウド上のAPIを活用する、新しい形でのキャッシュレス決済が広まっています。このデジタルテクノロジーを活用したキャッシュレス決済は多面的な産業分野でイノベーションを生み出す原動力となる可能性を秘めています。

この二番目の目的については、手数料からデータ収集へと、世界のキャッシュレス決済サービスの提供目的が変わってきていることに対する危機感があるようです。支付宝(Alipay)を持つ中国アリババ集団、微信支付(WeChat Pay)を展開する中国騰訊控股(テンセント)中国、巨大ECサイトを運営する米アマゾン・ドット・コムなどは、決済情報を含む膨大な個人データを蓄積しています。この膨大な個人データをAIで多面的に分析することで、顧客をさらに惹きつけるサービスを作り出して競争力を高めており、産業・企業に対する影響力を強めています。

そして第三は、訪日観光客対策です。普段、キャッシュレスに慣れている国から来てくれる顧客は、日本で買い物したり、食事したりするときにもキャッシュレスで済ませたいと考えるからです。

では、日本のキャッシュレス化は世界の中で見るとどうなっているのでしょうか。キャッシュレス・ビジョンでは、「世界各国のキャッシュレス決済比率は、韓国の 89.1%を始め、進展している国は軒並み 40%~60%台であるのに対し、我が国は 18.4%にとどまる」と分析しています。

世界各国のキャッシュレス決済比率(出所:経済産業省「キャッシュレス・ビジョン」)

確かに、日本は他の国に比べるとキャッシュレス決済はあまり利用されていません。特に韓国、中国、そしてキャッシュレス先進国として有名なスウェーデンなどに出張すると、現地通貨を使わずに済むだけでなく、現地通貨を見ることなく過ごせてしまいます。財布を持たずに過ごしている市民の方も少なくないようです。

日本でキャッシュレス決済が利用されないのはなぜなのでしょうか。その理由は利用者側とお店側の両方にあるようです。

利用する側から見たとき問題は、キャッシュレス決済を利用できない場面が日常的にいくつも存在することです。小さな商店や食堂などを中心に、現金でしか決済できないお店はたくさんあります。クレジットカード対応の看板を掲げているレストランでも、「ランチタイムは現金だけでお願いします」と言われるケースは少なくありません。また、友人同士で食事をして割り勘にしたり、一時的に少額のお金を貸し借りしたりする場面も現金が必要になります。

キャッシュレス先進国はどこも、手数料無料で個人間での送金が可能なスマホ決済サービスが存在し、広く普及しています。友人と食事して割り勘にしたいときでも、そこにいる全員が同じスマホ決済サービスを利用しているので、その場で送金できます。小さな店舗では、その個人間送金の仕組みを使って商品販売することもあります。ただし、日本にも手数料無料で個人間送金できるスマホ決済サービスが登場しているので、その普及状況によっては、この問題は解決されるかもしれません。

お店側からみた問題は、キャッシュレス決済を導入しても、現金決済をやめられないことから、導入メリットが少ないことです。まだまだ日本の顧客は現金支払いを好む人がいますから、キャッシュレス決済対応を進めたとしても、必ず現金支払いに対応できる体制は取っておかなければなりません。お釣りを用意したり、泥棒や強盗から売上金を守らなければなりません。

日本には、キャッシュレス決済の種類とブランドがたくさんあることも、お店側の負担を重くしている要因です。クレジットカードと交通系ICカードを含む電子マネーでもさまざまなブランドが存在する上に、国内企業が立ち上げたスマホ決済サービスも続々と登場しています。訪日観光客向けの売上を大事にするなら、他国で主流となっているキャッシュレス決済方式にも対応しなければなりません。対応するためのコストも問題ですが、レジ業務の担当者にすべての決済手段の手続きを正確に理解してもらうのも相当な負荷になっています。

日本で使えるキャッシュレス決済方式はさまざま。
店舗のレジ担当者は、それぞれの決済手段の手続きを正確に習得する必要がある
中国人観光客を引き込むには中国のスマホ決済サービスを用意しなければならない

日本でも先駆的な取り組みとして、店舗では現金を一切取り扱わないことにして、従業員の決済の負荷と管理の負荷を軽くし、顧客との接客やお店の価値向上に注力してもらうことを始めているケースや、センサーとキャッシュレス決済を用いてレジ無しのセルフ決済をテストするケースが出てきています。ただし、これらはまだ実験的な意味合いが強く、多くの店舗がすぐに導入できる社会環境とは言えないのが実情です。

日本ではまだ珍しい「現金NG」の看板

また、日本のユーザーはクレジットカード決済時に一括支払いをすることから、クレジットカード利用時の店舗が負担する手数料が他国よりも重いという問題もあります。このため店舗側はランチタイムのように客単価が安い時間帯は、店舗負担の重いクレジットカード払いはやめてほしいと考えるわけです。

見てきたように、日本にはキャッシュレス決済があまり浸透していない理由がいくつもあります。ただ、視点を変えれば、それらの課題を取り除くことができるなら、キャシュレス決済の利用率は着実に高められるでしょう。何より大事なことは「利用比率を40%にすること」ではなく、キャッシュレス化によって人手不足を解決し、生産性を高め、社会課題を解決することですし、イノベーションを起こして新たなビジネスを作り、訪日観光客の皆さんに快適に過ごしてもらうことです。まずは、自らのビジネス課題を明確にして、その手段としてキャッシュレス決済の導入を検討するところから始めるのが現実的な取り組み方と言えるでしょう。

著者情報
林哲史
日経BP総研 主席研究員

1985年東北大学工学部卒業、同年日経BPに入社。通信/情報処理関連の先端技術、標準化/製品化動向を取材・執筆。2002年「日経バイト」編集長、2005年「日経NETWORK」編集長、2007年「日経コミュニケーション」編集長。その後、「ITpro」、「Tech-On!」、「日経エレクトロニクス」、「日経ものづくり」、「日経Automotive」等の発行人を経て、2014年1月に海外事業本部長。2015年9月より現職。2016年8月より日本経済新聞電子版にて連載コラム「自動運転が作る未来」を執筆中。2016年12月「世界自動運転開発プロジェクト総覧」、2017年12月「世界自動運転/コネクテッドカー開発総覧」、2018年6月「Q&A形式でスッキリわかる 完全理解 自動運転」を発行。2011年よりCEATECアワード審査委員。

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