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富士通の半導体ヒストリー

富士通セミコンダクターメールマガジン「富士通電子デバイス製品ニュース」終了のお知らせ

この度、誠に勝手ながら2015年7月をもって当サービスを終了させていただきました。
ご利用の皆様には大変ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご理解の程よろしくお願いいたします。

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富士通セミコンダクター株式会社
http://www.fujitsu.com/jp/fsl/contact/

富士通の半導体ヒストリー

このページは、メールマガジン「富士通電子デバイス製品ニュース」に連載しました、「富士通の半導体ヒストリー」をまとめてご紹介いたします。

富士通のマイコン

8ビット・16ビットマイコンの三つの柱(No.36)

1980年代前半、8ビット、16ビットマイコンはモトローラ社(*1)とインテル社(*2)が主流製品で、その製品の真似をしていた日本メーカーに対して、米国メーカーよりクレームが出始めていました。
1984、5年頃はインテル社とのセカンドソース(*3)の交渉を継続し製品化していましたが、市場では既に顧客が固有の要求を満たす製品を求め始めており、悠長に米国メーカーのセカンドソースの交渉をしてから開発するのでは、顧客の要求についていけないと言うことが次第に明らかになりました。検討の結果、当社はオリジナルマイコン「F 2MC(*4)-8(8ビット)、F2MC-16(16ビット)」の開発を始めることになりました。しかし完成したF 2MC-8(*5)は、性能を重視した冗長設計やレイアウトの過剰な自動化のためコストが高くなってしまいました。そこで、これまでの低価格4ビットマイコンの顧客にF 2MC-8を採用してもらうため、コストを下げるための開発を行いました。
完成した製品は、電話機、VTR、プリンターなどに採用されましたが、結局、超低コスト競争に太刀打ちできませんでした。低価格市場への対応として、これまでの財産を生かしつつコスト対応力を備え開発したF 2MC-8L(*6)は、品揃えも多く、当社の1990年代マイコンの柱の一つとなりました。
8ビット品がコストで苦しむ一方で、1980年代末の市場は性能競争も勃発しており、16ビットマイコンの開発が開始されました。市場ターゲットは、自動車や産業制御機器で、当社はF 2MC-16(1.2μm)(*7)からF2MC-16H(0.8μm)(*8)へと開発を展開していましたが、日米摩擦を受け自動車メーカーの関心は得られませんでした。さらなる開発の継続と技術サポート部門の努力により、F 2MC-16F(*9)がついに採用されるようになりました。これが1990年代当社のマイコンの二つ目の柱となりました。
そして、マイコンF 2MCがASIC手法と結びついて花開いた恰好の例として次第に成長を遂げ、システムLSIの前例となったASICマイコン(*10)が三つ目の柱となりました。

<参考>
*1: モトローラ社(ウィキペディアより)
*2: インテル社(ウィキペディアより)
*3: セカンドソース(second source)(IT用語辞典「e-Words」より)
*4: F 2MC(エフスクウェアエムシー)FUJITSU FLEXIBLE MICROCONTOROLLER
*5: F 2MC-8  MB89750シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.9 No.2」より)
*6: F 2MC-8L MB89623シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.9 No.3」より)
*7: F 2MC-16 MB90704シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.8 No.4」より)
*8: F 2MC-16H MB90747Hシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.10 No.5」より)
*9: F 2MC-16F MB90210シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.11 No.5」より)
*10: ASICマイコン QCM8Lシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.10 No.3」より)

4ビットマイコンの開発(No.35)

1977年、当社はそれまでのMPUに比べて、市場価格が格段に安い4ビットマイコンを手がけて儲かるのかという検討を繰り返していました。結果的には、他社との低価格競争に厳しい状況でも民生市場へ打って出るという決断をし、4ビットマイコンへの参入決定、マイコンコストとの戦いの歴史がスタートしました。
当時としては画期的な高速性、割り込み機能や周辺回路内蔵など先進的な仕様を目標に開発された製品「MB8840シリーズ」は、1978年2月に量産出荷が開始され、最初に教育玩具(4ビットマイコンキット (*1)への採用が決まりました。
また、MB8840シリーズと同時に本格的な高集積大規模CMOSロジックMB8850シリーズの開発も始まりました。CMOSシリーズでは、40Vの高耐圧出力や電源電圧検知回路、番犬タイマーなどの採用でセールスポイントも多かったが、同時に問題や課題も沢山あり、このシリーズを完成させたことで当社のマイコン部門もようやく技術的に最前線へ立てるように成長しました。
以後、MB8840、MB8850シリーズをベースに、様々な顧客のニーズをくみ取って機能追加を図ったMB88400、MB88500シリーズ (*2)を開発しました。当社のマイコンは生産量では他社より劣っていましたが、応用分野の先端を走っており、多ピン(64ピン)、A/Dコンバータ付き「MB88515」は、コストパフォーマンスの良さで随一の評価を得て、電子レンジ、石油ファンヒータ業界で大ヒットとなりました。
これら「MB8840、MB8850、MB88400、MB88500シリーズ」は4ビットマイコンの名機となり、20年近いロングセラーとなりました。

<参考>
*1: 4ビットマイコンキット(ウィキペディア「MZ-40K」より)
*2: MB88551(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.2 No.8」より)

誕生(No.34)

当社のマイコンは、1975年の汎用8ビットマイクロプロセッサの開発から始まりました。
それまでは、電卓用LSIの開発の経験はあったものの、世に言う汎用マイクロプロセッサの開発は、1974年までIC部門内では殆ど本格的な検討がされていませんでした。1974年7月、当社の部品工業部にあった半導体部が電子工業部に移動し、通信工業部にIC開発部が設置されました。
IC開発部のメンバーはみな電子交換機の開発部門出身で、ICを使うシステム設計者から構成され、半導体設計は未経験のため、課員全員が電子工業部で設計実習受けることからから始まりました。検討を続けた結果、翌1975年2月にモトローラ社製「MC6800 (*1)」の上位互換品を「夏までに作る」ことを決断し、開発が始まりました。しかし日本では当時IC設計そのものが、ほとんどテキサス・インスツルメンツ社などの先進米国製品を競ってコピーして商品化していた時代の中、「MC6800」は複雑さも規模の大きさも当時としてはずば抜けていたため、開発はとても困難でした。
「MB8860/61」の最初のウェハーは9月に完成しましたが、試験をパスし良品としてサンプルをお客様に納品するまでにはさらに一ヶ月かかりました。初めてのマイコンは電電公社の銀行端末に搭載され、その後は、「MB8861」を核に高速化、コストダウン、派製品の開発、周辺デバイスの展開などさまざまな要求にお応えしながら富士通マイコン事業は拡大していきました。

<参考>
*1: モトローラ社製 MC6800(ウィキペディアより)

富士通のMOSメモリ

SRAMの開発(No.33)

当社では、1976年末にCMOS技術を用いた1KビットのSRAM (*1)を製品化するという課題から開発が始まりました。当時の1KビットのCMOS SRAMは、米国の2、3社が市場に出す程度で、市場もそれほど大きくない時代だっただけにほとんど注目されない状況でした。当社の開発は、他社製品を徹底的に分析することから始めました。CMOS技術は、回路面ではむしろNMOSよりシンプルで、またプロセス技術においてもさほど困難はありませんでしたが、コストが高いために、当時はそれを採用する必然性がまだなかった時代でした。
1978年から1980年はまだまだNMOSの技術が主流でしたが、NMOSでの高速化には消費電力とのトレードオフから限界がありました。またコスト的にも、ミックスMOSと呼ばれた技術の導入によりコストの差が縮まり、CMOSの低消費電力性の市場価値が出始めたことなどにより、1980年から1981年を境にSRAMのCMOS技術への移行が加速しました。翌年には16Kビット高速CMOS SRAMの開発が始まり、大容量時代への突入、CMOS技術の本格的採用へと向かいました。
1982年から1983年には、64Kビットの開発で多くのトラブルを経験しましたが、
一方では高速化への可能性を確認できるなど、CMOS技術を中心に据えてSRAMビジネスを展開していく内部環境が整っていきました。
結局、CMOS SRAMはメモリ市場では主役にはなれませんでしたが、256K、1Mビットの世代まで、スーパーコンピュータに搭載された他に、交換機用、キャッシュ関連などにも採用されました。 (*2)

<参考>
*1: SRAM(Static Random Access Memory)(ウィキペディアより)
*2: 当時、当社のSRAM製品
        MB81C67(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.2 No.7」より)
        MBM2122(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.11」より)
        MB81C71(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.11」より)
        MB81C79(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.11」より)

DRAMの開発開始(No.32)

1969年2月、ISSCC(International Solid-State Circuits Conference) (*1)でインテル社がPチャネルシリコンゲート1Kビットダイナミックメモリ「1103」を発表しました。
当社でも次期大型コンピュータのメインメモリに半導体メモリを採用することが決まり、性能優位のバイポーラメモリか、集積度/コスト優位のMOSメモリかの選択が最大の課題となりました。 (*2)
そして、性能/集積度/コスト優位から要求を満足できるのは「NチャネルMOSメモリしかない」との結論に達し、1971年に4トランジスタ/セル型NMOS 1Kビットメモリ「MB8201」の開発を開始しました。当時はCADなどというものはなく、電卓をたたいて信号の過渡応答のシミュレーションを実行しながらの開発でしたが、翌年「MB8201」は製品となり、大型コンピュータFACOM 230-58、75 (*3)に使用されることになりました。
しかし、この「MB8201」と新たに開発していた「MB8103」は、社内情報処理部門での信頼性試験で、入力保護ダイオードが不完全なため、静電気に滅法弱いことがわかり、さらに改良しました。
その後、量産となった「MB8103」は、FACOM 230-28、38に使われるようになりました。
また一方で、1974年から開発が始まった4Kビットダイナミックメモリ「MB8107」(1トランジスタ/セル型、インテル社のi-2107互換品で22pin)も中・低速メインメモリとして、FACOM Vシリーズ (*4)などに使用されました。

<参考>
*1: ISSCC(日経BP社Tech-On!の用語集より)
*2: MOSメモリの萌芽(日本半導体歴史館より)
*3: FACOM 230-75(IPSJコンピュータ博物館より)
*4: FACOM Vシリーズ(IPSJコンピュータ博物館より)

SPARCの歴史(後編)(No.31)

当社のSPARC (*1)は1983年に開発が始まり、富士通グループとして独自のSPARCを持とうと検討が始まりました。この時期は、次世代の大型コンピュータOSの動向が議論され、オープンなOSであるUNIX (*2)に目を向ける必然性が声高く叫ばれた頃でもありました。
EWSの遙かに上位/高速/高信頼性のUNIXマシンが将来の中心になるとの認識から、当社としては、大型計算機開発が培った技術が活きる超性能のSPARCアーキテクチャプロセッサの開発が決断されました。S25の性能向上版のSPARC MINIはこのような方針決定後、SUN社と共同開発したものです。開発は他社との競争になりましたが結果として圧勝し、多くの受注をいただきました。
また、EWS用のSPARC-MPUとは別に、LBP(レーザビーム・プリンタ)やLAN製品(ブリッジ、ルータ)などをターゲットとした組み込み用32ビットRISC-CPUとして、「SPARClite」のプロジェクトが1980年代末にスタートしました。「高性能を手軽に」をキャッチフレーズに当時のEWS用のMPUの性能に匹敵する40MIPS程度の性能と、コスト要求の厳しい産業、民生製品への組み込みを可能とした新しいタイプのRISC-CPU「MB86930シリーズ (*3)」が誕生しました。
その後、更なる高性能、低価格を実現するため、100MIPSに達する高性能と民生市場、携帯機器にも対応できる低価格、低消費電力を併せ持つ「MB86830シリーズ」が製品発表されました。

<参考>
*1: SPARC(Scalable Processor Architecture)(ウィキペディアより)
*2: UNIX(ウィキペディアより)
*3: MB86930シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.9 No.5」より)

SPARCの歴史(前編)(No.30)

当社のSPARC (*1)は、1983年にSUN Microsystems社 (*2)(以下SUN社)からRISC (*3)プロセッサの開発の依頼を受けたのが始まりでした。この時期のASIC技術は、CMOS1.5um、Al3層を達成し、2万ゲートのゲートアレイの3バルクで量産出荷を開始した頃でした。いろいろなコンピュータメーカへの売り込みを行った時期です。
一方、MCU(Micro Controller Unit)、MPU(Micro-Processing Unit)ビジネスでは、Intel社の286 (*4)の2nd sourceと独自の4ビットマイコンが中心でした。RISCがCISC (*5)とは別のMPUであるとの概念の違いが大学などで叫ばれ出した時代で、オープン化の走りの時期でもありました。当社としても海のものとも山のものともつかぬRISC、聞いたことのないSPARCアーキテクチャ、まして情報部門としてはデバイス部門に任せた開発形態となり、スタンダードセルで開発するリスクを避けるため、当時できたてのC20KUN(15Kゲートロジック+SRAM)ゲートアレイで開発することに決まり、このC20KUNで開発したSPARCプロセッサが初代のS16でした。
その後、性能向上、コスト削減を目指して1992年にS20、S25と開発が続きました。ここでSUN社、Xerox社、当社などSPARCプロセッサの顧客と開発関連会社が一緒になり、SPARCアーキテクチャを世の中の標準にしていくための「SPARCインターナショナル(SPARC International)」が共同で設立されました。SPARCアーキテクチャはSUN社や当社の手を離れ、この団体で検討、承認された仕様に基づき誰でも作れるようになりました。

<参考>
*1: SPARC(Scalable Processor Architecture)(ウィキペディアより)
*2: SUN Microsystems社(ウィキペディアより)
*3: RISC(Reduced Instruction Set Computer)(ウィキペディアより)
*4: Intel社製286マイクロプロセッサ
*5: CISC(Complex Instruction Set Computer)(ウィキペディアより)

ASSPの歴史(No.29)

1980年代、ASICビジネスで複数の顧客が同じような製品を欲していることがわかり、自社で開発し汎用品として製品化しようということから当社のASSPは始まりました。
当時の商品は、メモリ、プロセッサに代表される汎用品と、カスタム品であるASICとに大別されましたが、ASSPは汎用品ながらASICビジネスの延長に位置づけられるものでした。ASICの最も一般的な製品は、共通のバルクの上に顧客毎の論理を配線で実現したG/A(ゲートアレイ)ですが、顧客の必要とする数量が多く、特殊な機能や非常な高速動作が要求される場合は、より自由度が利き、小さく高速にできるS/C(スタンダードセル)設計手法が適しています。しかし、S/Cは開発に工数がかかるというリスクがあります。
このとき、他の顧客からも同じような要求があり、顧客の論理設計から製品を開発するよりも自社で設計した方が小さく良い製品が作れると判断できれば、汎用品として開発することになります。このようにして開発が始まったASSPで代表的な製品となったのがDSP(Digital Signal Processor)でした。パーコール方式の音声合成LSI MB8760、モデム用MB8763、本格的16bit品のMB8764 (*1)、さらに1986年には32ビット浮動小数点DSP MB86232 (*2)などを開発しました。
しかし当時の市場の大きい分野では価格優先で比較的容易にファーム開発が可能な16ビットDSPが主流であることがわかり、当社も方針を転換して低価格なDSP開発に注力し、サーボコントロール用MB86310シリーズ、携帯電話用MB86321などを開発しました。1996年に開発されたマルチメディア・オーディオ用DSP MB86341 (*3)は、16ビットでは演算精度が得られず、20ビットに拡張しました。
このように、必要とされる性能に最適な構成でアプリケーションを実現するといった考え方を理解し、顧客に提案できるようになるまでに10年以上の歳月を費やしました。また、ASSPの開発では、ASICの顧客にとって新たなLSIの使い方、システムの可能性の追求に役立つこともありました。

<参考>
*1: MB8764(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.2 No.5」より)
*2: MB86232(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.6 No.22」より)
*3: MB86341(1996年9月27日富士通リリースより)

CMOSゲートアレイ(成熟・転換期)(No.28)

1985年、当社のCMOSゲートアレイは、前年のビジネスの絶好調から一転して不景気と競合会社の増加により、大不況となりました。競合他社は、1.5umの一万ゲート以下の開発が先行しており、当社は1.5umの製品を出すまで、既存の製品VHシリーズ (*1)の2.3umを1.8umにpoly shrinkし、さらに2000ゲート以下に440、770、1275、1700ゲートを追加してAVシリーズ (*2)としてビジネスを繋げました。1986年に新たに開発したのが1.5umのUHBシリーズ (*3)で4、5年間の大ヒットとなりました。さらにこの時期に並行して開発したのは、コンピュータ用のCMOSゲートアレイでした。これは1.5um、3層メタルを使用した画期的な2万ゲートのUHシリーズで、内外から大きな反響を受け、先端のCMOSゲートアレイとして活躍しました。1988年から1992年は、1.2um、0.8um、0.5umのテクノロジ開発、SOG(Sea Of Gate)レイアウトCAD開発・第三者CAD導入、ゲート規模の増大化に伴うマクロサポートの競争で、ゲート規模はこの間、2万から一気に100万ゲートに跳ね上がりました。ここで開発したのが、大規模な150万ゲートの低消費電力化と高速化を同時に実現する製品で、0.5umのCG51シリーズ、CE51シリーズ (*4)が完成し、この製品の開発を機会に当社の開発技術が躍進していきました。

<参考>
*1: VHシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.2 No.5」より)
*2: AVシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.4 No.13」より
*3: UHBシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.5 No.20」より
*4: CG51/CE51シリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.12 No.2,3」より)

CMOSゲートアレイ(拡大期)(No.27)

1980年代の当社のCMOSゲートアレイ (*1)は、スタンダードシリーズ (*2)(770、1275、2000、3900ゲート)に加えて、Hシリーズ(2.8um)、HBシリーズ(高駆動能力I/O搭載) (*3)、VMシリーズ(SRAM搭載) (*4)と品揃えも充実し、お客様の高い評価をいただくなか、この時期のワールドワイド・マーケットシェアで70~80%を占めることができました。
さらに国内では大阪 (*5)、名古屋と特約店に、海外は米国、欧州にデザインセンターが設立され、エンジニアも増員となりお客様と商談する環境も整っていきました。
しかしCMOSゲートアレイの急拡大の次に来たのが、1984年の異常な需要に対する供給問題の発生でした。お客様の要求する納期に間に合わず、生産工場との調整を行いましたが焼け石に水で、新しい商談獲得にも力が入らない状況のなか、急遽、若松工場の建設が決まり、供給の見通しがどうにかつくようになりました。またこの頃、英国のお客様の依頼により、大規模ゲートアレイのC-8000VHを用いた計算機器用の開発が始まりました。
この開発は特に大きなトラブルもなく42品種を完成することができました。しかし開発過程で英国のお客様との技術情報のやり取りは、TELEXとFAXを使用しながら進められたのですが、当時の当社のFAXは、非常時に使用するものとして特別な部署にしか設置されておらず、現在のようにE-mailも普及していないので非常に苦労しました。

<参考>
*1: ゲートアレイ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.2」より)
*2: スタンダードシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.1 No.1」より)
*3: HBシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.10」より)
*4: VMシリーズ(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.11」より)
*5: 大阪デザインセンター(「富士通セミコンダクターマガジンFIND Vol.3 No.12」より)

CMOSゲートアレイ(黎明期)(No.26)

当社のシリコンゲートCMOSは、1976年に時計用ICにおいてアルミニウムゲートCMOS回路をシリコンゲート (*1)CMOS用に再設計することから始まりました。
更に翌年、配線層形成を一層メタルから二層メタルにした、2000ゲート、4000ゲートCMOSマスタースライス (*2)ICの設計を開始しました。
基本セルの構造、I/Oセル方式、基盤コンタクトの取り方、電源配線方法、配線チャネル数、設計フローなど、後の配線チャネル固定型のCMOSゲートアレイの骨格は、この時期に殆どが決まり国内および海外で特許も取得しました。
そして最初のCMOSゲートアレイとして、情報処理部門向けにMODEM端末用、小型ディスク用の2000ゲート、3000ゲートの製品が1978年に完成し、翌年には外販のためにCMOSゲートアレイ・デザインマニュアル、セル特性表、論理図面作成仕様書、テストデータ作成仕様書等の各ドキュメントができ、ビジネスが立ち上がっていきました。

<参考>
*1: シリコンゲートCMOS(富士通研究所(やさしい技術講座「システムLSI(CMOS)作り方」より)
*2: マスタースライス(ech-On!「NE用語」より)

自動車向け時計用IC(No.25)

1976年に、当社はCMOSによる自動車向け時計用ICへの参入を決めました。当時、自動車用の時計市場を独占していたお客様へ訪問し、仕様をお願いしましたが、最初は門前払いをくらいました。しかし、諦めずに訪問回数を重ねた結果、「開発したら評価する」ことで、口頭により機能、性能、特性などを教えていただけたのです。これをベースに設計を開始しました。約2ヶ月かけて設計が完了しましたが、試作後の評価ではラッチアップ (*1)現象による破壊、ノイズによる誤動作、消費電力大などの難題・トラブルが多発しました。特にラッチアップ現象については、文献では知っていたものの、実デバイスでは初体験でした。
また、シミュレーション技術が確立されていなかった状況下でもあり、対策に苦労を重ね、ノウハウを蓄積していったのです。このような開発経験を経て、1977年にようやくお客様に認めていただける自動車向けアナログ時計 (*2)用IC(MB8706)が完成しました。その後、MB8706は、受注量は増加の一途をたどり、1977年から1995年まで、累計300万個を超えるデバイスになりました。
1978年には、時計のデジタル化に伴い、車載用の時計もデジタル化され、高級車種に搭載され始めました。そのため、当社はアナログ時計用ICの実績をもとに、蛍光表示管表示のデジタル時計 (*3)用ICの開発に着手しました。仕様検討を行い、主な機能を、時、分、秒、AM/PM表示、ゼロ・アジャスト、ブライト・コントロール、早送りなどの単機能としました。しかし、設計から試作まで順調でしたが、量産初期にトラブルが多発しました。原因は、静電気破壊や異物やゴミによる配線の断線などです。このため、設計の改良、お客様も含めた製造ラインへの種々の対策、さらに新たな試験手法の導入などを行い品質の改善を重ね、1979年に出荷を開始しました。
以来、長期に渡り累計1,500万個を超えてお客様に利用いただける製品(MB8743)となりました。

<参考>
*1: ラッチアップ(ELISNET「半導体・電子部品関連の用語検索」より)
*2: アナログ時計(ウィキペディアより)
*3: 蛍光表示管表示のデジタル時計(ウィキペディアより)

PLL LSI技術の開発(No.24)

1972年、米国のCB無線で水晶を多数使ったクリスタル・シンセサイザが使われていた当時、精度を落とさずに、水晶を減らし操作性を増すことができるPLLシンセサイザ (*1)が使用されるようになりました。これは集積回路の発展に伴い、論理回路の集積化が進み、PLLシンセサイザ用LSIが製品化されたためです。
当社では、CMOS 84Kシリーズを使って、最初のPLL LSI(MB8708/MB8709)を設計しました。しかし、この製品は、機能的には問題なく動作しましたが、お客様へサンプルを提供して評価いただいたところ、「不感帯」が発見されたのです。これは、PLLがロック(周波数および位相が一致している状態)しているとき、制御パルスを出力しないため、非常に狭い範囲で周波数が安定しない状態となり、入力の微小位相差に対して出力が応答しなくなる現象です。
そこで、この現象を解析・対策し、LSIのパターン設計に反映して次のサンプルをお客様へ提供したところ、「不感帯」がなくなるのはもちろんのこと、C/N(キャリアとノイズの比)がとても良くなったとの評価をいただきました。この技術を活かしたMB87001/MB87006 (*2)は富士通の通信部門においても性能が高いことが確認され、さらに、自動車電話の開発に伴いバイポーラのプリスケーラとともに自動車電話用PLLシンセサイザとして、国内外のお客様から高く評価されました。
「富士通製のPLLを使えば、今まで苦労していたところが簡単に良くなるよ」とも言われ、多くの受注をいただきました。
このPLL LSIの技術は、その後開発されたBiMOSのPLLやアストロシリーズにも活かされていきました。

<参考>
*1: PLL(富士通セミコンダクターマガジンFIND「PLL周波数シンセサイザ」より)PLLシンセサイザーIC
*2: MB87001/MB87006(富士通セミコンダクターマガジンFIND「電話機用および交換機用IC」より)

LSI開発初期(No.23)

当社のMOS(Metal Oxide Semiconductor)ロジック (*1)は1972年頃、12桁プリンタ出力付き電卓用カスタムLSIのMB8801から始まりました。
MB8801は、既に開発されていたゲート電極にアルミを使ったPMOSで、プロセス技術面ではゲートにポリシリコンを使ったシリコンゲート技術が適用されました。
その後、MOSはスピードと集積度を求めてPMOSからNMOSと移り変わりましたが、消費電力の制約に限界が近づいたため、更にCMOS (*2)へと移行します。CMOSは製造工程数、単位回路当たりの素子数・面積など、NMOSに比べてハンディがありました。しかし、電源電圧利用効率が100%でしかも必要な時にしか電力を消費しないことと、大規模論理回路は布線がチップの大部分を占めることから、論理LSI技術として理想に近いものになりました。
NMOSがまだ主流の当時(1973年)、当社はアルミゲートでSSI/MSI(Small Scale Integration/Medium Scale Integration) (*3)レベルのCMOS製品を開発していました。

<参考>
*1: MOSロジック(富士通研究所「システムLSI原理」より)
*2: CMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)(富士通研究所「システムLSI(CMOS)ってなんだろう」より)
*3: SSI/MSI(ウィキペディア「集積回路」より)

富士通のアナログIC

画像処理用LSI(No.22)

当社は、1980年から画像処理用LSIとして、社内向けにビデオ用の20MSPS8ビットADコンバータ(MB4054)と10ビットDAコンバータ(MB4074)を開発しました。1981年には超高速バイポーラメモリ用に開発されたIOP (*1)プロセスを使用して、0.9Wに低電力化した世界トップレベルとなるMB4054を完成させました。
開発では、当時のアナログLSIでは大規模となる約1万素子のレイアウトや20MSPSの高速変換レートでの評価と試験に苦労しました。評価では専用の設備がないためロジックアナライザで行い、試験でも専用テスタがないため手作りの治具とオシロスコープを使って目視で変換精度性能の選別をしました。
こうして完成したMB4054とMB4074は、画像符号化装置や超音波診断装置の小型化、低電力化、低価格化というビデオ信号のデジタル化を促進させていきました。
さらに、当社は、1983年には民生用として、コストパフォーマンスの高い6ビットADコンバータ(MB40576)と6ビットDAコンバータ(MB40776) (*2)を製品化し、多くのAVメーカから商談を獲得でき、業界シェアが90%を超えるまでになりました。
また、1991年には、ファミリーコンピュータ向けのRGB (*3)エンコーダIC(画像処理用LSIの出力をテレビのNTSC/PAL信号に変換するICのこと)の開発が始まりました。
このICは、短納期を要求されたため、開発・製造部門一体となって努力し、設計完了から試作サンプルの顧客提出までをわずか12日で行いました。

<参考>
*1: IOP(Isolation with Oxide and Polysilicon)(富士通技術情報誌FIND 1983 No.2より)
*2: MB40576/776(富士通技術情報誌FIND 1984 No.7より)
*3: RGB(Wikipediaより)

電源ICの黎明期(No.21)

1972年頃の電源用ICは、フェアチャイルド社が世界標準的ICを提供していました。
当社は、このICの相当品であり、電力処理を対象としたシリーズレギュレータである「MB3751」を開発しました。
MB3751は、最大入力3.0V、出力電流2Aの電力処理を特長とした製品であり、熱処理対策のため、直接放熱板に取り付けるキャンタイプ(TO-3) (*1)の9ピンパッケージを採用しました。
この製品での、ASO(Area of Safe Operation) (*2)特性評価や過渡熱抵抗測定に関しての苦労が、後のオーディオ用パワーアンプの設計と評価の開発で大きく貢献することになりました。
1973年には「MB3752」が開発され、大電流電源の制御用、オンボード用の用途として長期に渡り生産が続きました。
1977年に、CB無線用の電源用ICやスイッチング電源用のカスタムICを開発しました。この電源用ICは、無線の送信、受信に対応して電源切り替えを行うICであり、当時CB無線ブームであったこともあり、超短期間で開発から量産出荷まで行いました。この後十数年経てコードレス電話開始時にも活躍したICでした。
その後、シリーズレギュレータの開発は、エンジン制御用電源IC「MB3762」やカーオーディオ用「MB3774」 (*3)に引き継がれていきました。

<参考>
*1: TO-3(通信用語の基礎知識より)
*2: ASO(ELISNET電子部品用語検索より)
*3: MB3774(富士通技術情報誌FIND 1988 Vol.5 No.17より)

アナログカスタム品(No.20)

1970年後半よりアナログレコードプレーヤー、カメラ、VTRなどの用途にアナログカスタムICが開発されました。
1977年当時は、アナログレコードプレーヤー (*1)でアナログレコードの曲間無音部分での反射光を検出し、曲の先頭へピックアップの針を移動して静かに下ろすための制御を行うICが開発されました。このICには、アナログICにデジタル回路を取り入れる方法として、プロセスを変えずに低電力デジタル回路が実現できるIIL(Integrated Injection Logic)が採用されていました。
1978年になると、カメラ (*2)のフィルムのワインダー(モータドライブ)用のICから始まり、スピードライト(ストロボ)用、オートフォーカス用の製品を開発し、さらに1981年にはシャッター制御用のICを開発しました。このICは、光量計測をもとにシャッターをデジタル制御するため、低ノイズの電流アンプなどのアナログ要素とIILロジックが複合化されました。
1979年には、VTR(Video Tape Recorder)用のIC開発に参入でき、ビデオヘッドの高周波信号処理用、ビデオノイズキャンセラ用のICを製品化しました。その後、VTR関連では、TV同期用、音響用のICを開発していき、さらにカメラ用のICやビューファインダ用などに展開していきました。

<参考>
*1: アナログプレーヤー(ウィキペディア「レコードプレーヤー」より)
        ウォークマン(ウィキペディアより)
*2: カメラの歴史(産業技術史資料情報センターより)

マスタスライス(No.19)

1970年代当時の大型電算機システムは、現在のハードディスクによる入出力操作を全て磁気テープで処理していたため、コンピュータのコンソール台の全面には何十台もの磁気テープ装置が並んでいました (*1)。この磁気テープ装置やハードディスク装置のヘッドからのアナログ信号を処理するための用途から社内向けのアナログICの歴史は始まりました。
1976年頃、アナログIC開発においては、周辺機器のモデルチェンジに応じて、数多くの機種ごとのカスタムICを開発したり、アナログ回路特有の特性に合わせて改良試作したり、苦労が絶えませんでした。
そこで、各品種共通のシリコンチップを用意し、品種ごとにアルミ配線とコンタクト窓を変えることで多品種を簡単に開発できる「アナログマスタスライス (*2)方式」が採用されました。コンタクト窓が品種ごとに変更可能な方式を採用したおかげで、アナログ回路特有の微妙な抵抗値の調整が行え、多品種を簡単に、安価に、短手番で実現できるようになりました。
また、適用範囲が広く、1977年にA300シリーズ(MB4301~MB4307)が開発され、さらに、1981年には社外向けに用途を拡げていきました (*3)

<参考>
*1: 当時のコンピュータ(FACOM M-200)
*2: マスタスライスLSI(Tech-On!「NE用語」より)
*3: マスタスライスの製品(富士通技術情報誌「FIND 1983 No.1」より)

自動車用(No.18)

自動車用アナログICの開発が始まったのは1970年代であり、当初カーオーディオ向けのA/Dコンバータが主体でした。
量産の開始は、カーラジオ用のパワーアンプが1974年(昭和49年)であり、カーオーディオ用としての開発が1977年に、エンジン制御用A/Dコンバータの開発が1978年末に始まっていました。
カーオーディオ用ICであるシングルタイプのパワーアンプは、独自回路の考案と小型パッケージの採用により、市場参入を果たしました。さらに、当時、カーステレオに要求されていた4スピーカー対応により、10W以上の高出力を持ったBTL(Bridged Transformer Less)パワーアンプを開発し、小型化と部品点数の削減を図り、数十社に採用されています。
エンジン制御用A/Dコンバータの当初の製品は高性能でしたが、高額のため採用されず、その後、機能をシンプルにした4ch 8ビットと6ch 10ビットの製品 (*1)を開発してエンジン制御に採用されました。
1978年には、A/Dコンバータのカスタム品として、排ガス対策に関連する製品として、アクチュエータ (*2)制御用と車速・回転数検出用などのICが開発されました。
1980年にはオートクルーズ (*3)用のICを開発しましたが、この製品は、1986年に米国で起きたAT車の暴走事故により、リコール問題に巻き込まれてしまいました。
しかし、当社の実験により接触不良が原因であることを実証でき、無罪となるエピソードがありました。

<参考>
*1: 当時開発された製品(富士通技術情報誌「FIND 1983 Vol.1 No.3」より)
*2: アクチュエータ(「IT用語辞典バイナリ」より)
*3: オートクルーズ(「ウィキペディア」より)

海底中継器用LSI(No.17)

海底中継器用LSIとして、海底光ケーブル用のIC(MB4636/37/38/39、MB3767)の開発が1981年に通信研究所との共同で始まりました。
このICは、太平洋横断ケーブルの海底中継器に使用されるため、海底からの引き上げや取り替えを考慮すると、25年間無事故(メンテナンスフリー)をクリアしなければなりません。この問題に対し、開発者達は、議論を重ねた結果、230℃の高温加速度試験を5,000時間行う必要があることを突き止めたのです。 (*1)
そのため、このICは、試験の高温に耐えられるように、ICケースの端子からボンディングパッド (*2)に至る経路を全て金で統一し、パッケージをセラミック気密封じタイプで金メッキ端子にしました。それはまさに「宝石」のように高価なICでした。
1975年の第二太平洋同軸ケーブル方式は845回線でしたが、1988年に敷設された第三太平洋光海底ケーブル (*3)は、このICにより7,560回線の容量となりました。さらに、1992年の第四太平洋横断ケーブルでは、MB4640/41/42の開発を行い、容量を15,120回線に増加させていきました。

<参考>
*1: 海底中継器の信頼性技術(雑誌「FUJITSU」2007年7月vol.58 No.4より)
*2: ボンディング(「ELISNET」より)
*3: 太平洋光海底ケーブル(「Wikipedia」より)
        第一太平洋海底ケーブルは1964年に真空管方式(128回線)、第二は1975年当社のトランジスタによる同軸ケーブル方式(845回線)が使用されました

通信用(No.16)

通信用ICの始まりは、1973年(昭和48年)に旧電電公社との共同で開発した。電話機用通話回路IC(MB4504)でした。開発においては、ES(Engineering Sample)の試験でPNPトランジスタのラッチアップ (*1)現象のため、実装試験で受話器に大声で怒鳴ると通信が切れてしまう現象が発生しました。PNPの寄生効果に悩まされる発端となったのです。
その後、1979年に開発されたプッシュホン用IC(Dual Tone Multi Frequency Osc MB4507)は、電話機の販売スケジュールが決まっていたため、納期厳守での開発となりました。
MB4507の成功で信頼を勝ち取った当社は、さらに当時の電話機の全ての機能を取り入れたIC(MB4509)の開発を依頼されました。しかし、チップサイズが大きいため、ロット確保が大変であり、さらに低温不良(ある温度範囲だけで動作不良となる現象)の障害などが発生しましたが、アナログ部門の総力をあげて解決し、その後も多くの製品を開発していきました。

<参考>
*1: ラッチアップ(「ELISNET」より)

富士通のバイポーラ

メモリ編4:バイポーラPROMの開発(No.15)

当社のバイポーラPROM (*1)の製品(MB7050シリーズ)は金拡散の開発から始まりましたが、素子や回路の高速化、高密度化、高集積化に限界があるため、それぞれの問題点と対策を検討した結果、IOP (*2)とSVGを組み合わせたショットキーPROM(MB7100シリーズ) (*3)の開発へと移行しました。
しかしここでもプロセスの限界が見え、次期製品を検討するために顧客からの情報を収集していると、マイコンとのワンチップ化の案が浮上してきました。まず前段階としてその当時要求されていたレジスタ付きと、ラッチ付きのPROM MB7200シリーズ (*4)の開発が始まりましたが、論理回路の知識と経験が当社になかったため、マイコンとのワンチップ製品化には至りませんでした。
また、顧客から書き換えのできるEEPROMの開発要求もあり、バイポーラ並みのスピードが要求されていきました。ここでメモリセルをNMOSなどに置き換える、今で言うFLASHに近い開発案もありましたが、これも発案だけで断念することになりました。
結局、1970年代に多く存在していた競合他社も1980年代には徐々に脱落撤退し、気がついてみると最後まで残ったのは当社だけとなり、1988年の宇宙衛星用MB9138を最後にバイポーラPROMの開発は終息しました。比較的短い製品寿命でしたが、懸命なる開発に携わった多くの技術者により生まれ出たものでした。

<参考>
*1: PROM(Programable Read Only Memory)
*2: IOP(富士通技術情報誌「FIND 1983 No.2」より)
*3: MB7100シリーズ(富士通技術情報誌「FIND 1983 No.3」より)
*4: MB7200シリーズ(富士通技術情報誌「FIND 1983 No.7」より)

メモリ編3:バイポーラPROMのはじまり(No.14)

当社でPROM(Programable Read Only Memory)が注目され始めたのは1971年、大型コンピュータFACOM 230-75 (*1)の開発をしていたころでした。
当時大型コンピュータのキャッシュにはバイポーラRAMを使用することがほぼ定着し、メインメモリは磁気コア (*2)からMOSメモリへの転換が検討されていました。また、CPUや各周辺機器の制御にマイクロプログラム方式 (*3)が採用されつつありましたが、使用できるデバイスとしては磁気コアまたは磁性ワイヤしかなく、これらは容積も大きく速度も200ns程度が限界でした。このため、マイクロプログラムの小型化、高速化を図るためにIC化が検討され、以下の利点によりPROMの開発が始まりました。
1.IC設計上は1品種を作るため、量産化が容易である。
2.情報の変更がどこでもでき、TAT(Turn-around Time)が非常に短い。
3.実装密度は固定MASK方式より若干劣るがMagnetic ROMより数段向上する。
しかし、開発においては、一層配線から二層配線への変更、よくわからないセルの書き込みメカニズム、30Vという高い書込み電圧等のため、悪戦苦闘の連続となりました。その結果、PROMでは、セルベース方式、読出し/書込み回路、故障診断、試験技術(PROMの試験方法*4)など、幅広く50以上もの特許を取得できたのです。

<参考>
*1: FACOM 230-75(コンピュータ博物館より)
*2: 磁気コア(ウィキペディアより)
*3: マイクロプログラム方式(ウィキペディアより)
*4: PROMの試験方法(富士通技術情報誌「FIND No.1」より)

メモリ編2:バイポーラRAMの開発(No.13)

1970年代、バイポーラRAMは、128ビットから256ビットへの容量の倍増と高速動作とを実現するため、SBD(SBD負荷型) (*1)を採用しました。これによりスタンバイ電流を減らし、性能も実現できましたが、リーク電流で良品が取れなくなるという問題が発生しました。256ビットでスタンバイ電流を1/3にした途端、エピタキシャル層 (*2)に内在した"パイプ"と呼ばれる結晶欠陥が見つかったのです。この問題は、プロセスの努力で解決し、さらに1KビットMB7071を開発し、社外の顧客に向けて売り込みを始めました。その後、4KビットMBM10470を開発しますが、今度は歩留の問題との格闘となりました。
また同年代、低消費電力、高集積度を特徴としたIIL(Integrated Injection Logic)が発表され、これをメモリセルへ適用する開発も進められましたが、IILのメモリへの応用は様々な問題を生じ、行き詰まり状態となっていきます。その中で、IILと同様に低電力、高集積度を特徴としたPNP負荷セルを使用したPNP負荷型の4Kビットメモリが他社から発表されました。
PNP負荷型は、集積度ではIILより劣っていましたが、より素直な動作と構造であり、さらに歩留まりが高かったのです。そのため、IILの開発はPNPの開発へと移り、IILの開発は終焉となります。しかし、IILの開発で培ったノウハウがPNP負荷型に活かされていました。
PNP負荷型による最初の製品は16KビットMB10480で、スーパーコンピュータのメインメモリとして多数使用されました。さらに、その後次々と製品化され、メモリ事業に大きな貢献をすることになりました。

<参考>
*1: SBD(ショットキーバリアダイオード)(ウィキペティアより)
*2: エピタキシャル層(エピタキシャル結晶成長)(Tech-On!「ものづくり用語」より)

メモリ編1:バイポーラRAM(No.12)

1970年代、富士通のバイポーラメモリにはRAMとP-ROMの2種類の製品系列があり、社内に最先端のプロセス開発能力を持つことで、世界の最先端をゆく製品を開発し市場を制していました。
バイポーラメモリのひとつであるRAMは、コンピュータに使われた最初の半導体メモリであり、大型コンピュータ「FACOM 230-75 (*1)」に使用されました。また、電子交換機用プロセッサのキャッシュメモリ (*2)にも使用され、キャッシュメモリ向けの開発も行われていました。
初期のバイポーラメモリである「MB7001~MB7030シリーズ」は、メモリセルアレイ、アドレス、デコーダ/ドライバー、センスアンプなどの機能を回路別にIC化し、これらをプリント基盤上で組み合わせて使用するマルチチップ型でした。
また、バイポーラRAMは、メモリセルにフリップフロップ回路 (*3)を使ったスタティックメモリ (*4)であり、主な用途がキャッシュメモリのため、常に高速性が要求されていました。そのため、時代とともに集積度であるビット容量が大きくなるとともに、バイポーラトランジスタによるフリップフロップの負荷素子は抵抗からSBD (*5)へ、また、PNPトランジスタ (*6)へと大きく変化しました。
その後、さらなる大容量化のため、MOSトランジスタによるBiCMOSメモリへと変わっていきました。

<おまけ情報>
スーパーコンピュータの話題
「次世代スーパーコンピュータ『京(けい)』向け超高性能CPU『SPARC64 VIIIfx』」が、 「日本産業技術大賞文部科学大臣賞」を受賞

<参考>
*1: FACOM 230-75(コンピュータ博物館より)
        FACOM 230-75関連資料(科学技術計算分科会2006年度会合資料「SPARC64 V/VIの高性能,高信頼技術」より)
*2: キャッシュメモリ(IT用語辞典より)
*3: フリップフロップ回路(IT用語辞典より)
*4: スタティックメモリ(goo辞書より)
*5: SBDショットキーバリアダイオード(Wikipediaフリー百科事典より)
*6: PNPトランジスタ(Wikipediaフリー百科事典より)

ロジック編3: 移動体通信機器用LSI(No.11)

1980年代、移動体通信機器は、応用分野の広がりと共に小型化競争が激化していきました。そのため、機器の小型化に対して、複数の回路ブロックをできる限り一つのLSIで実現させることが求められており、「バイポーラで作られているプリスケーラとCMOS (*1)のPLLをひとつのICチップ上で実現させたい」という"夢"を試行錯誤しながら実現したのがBiCOMS (*2)技術でした。この技術によって、1986年、高速PLLシリーズ最初の製品である「MB1501 (*3)」が誕生しました。
さらに、1990年(平成2年)移動体通信の市場は活況を呈し、小型化やコストの低減への要求がさらに高まる中、PLL周辺のRF (*4)部のLSI化が技術的に困難であったため、TEG (*5)の開発を開始しました。悪戦苦闘の結果、翌年、コードレス電話や携帯電話などに使用可能な製品開発の見通しがたち、ASTRO ARRAYとネーミングされました。この製品は、PLLを核として周辺にアンプ、ミキサー、直交変調器などを構成可能なアナログ・マクロを配置して、マスタースライス (*6)手法での製品開発を採用し、アナログ部をセル化することで開発リスクを最小限にできたのです。
その後も、ASTRO ARRAYシリーズ (*7)はテクノロジを改良し、シミュレーション環境の改善などにより、小型化とコスト低減へと製品 (*8)の開発を推進していきました。
当時、デジタル携帯電話のサービスが1993年に開始され、1994年には携帯電話の売り切り制がスタートしたことで、携帯電話は急速に普及していきました (*9)

<参考>
*1: CMOS(富士通研究所「やさしい技術講座」より)
*2: BiCMOS(IT用語辞典より)
       1つの基板に、バイポーラトランジスタとCMOSの両方を使って回路を形成する手法
*3: MB1501(国立科学博物館「産業技術の歴史」より)
       現在の富士通・高速PLLシリーズ
*4: RF(IT用語辞典より)
       Radio Frequncyの略。電磁波や電気信号のうち、無線通信に利用できる周波数のもの
*5: TEG(日経マイクロデバイス-Tech-On!より)
       LSIに発生する設計上や製造上の問題を見つけ出すための評価用素子
       テスト構造(test structure)とも呼ばれる
*6: マスタースライス(日経エレクトロニクス-Tech-On!より)
       配線層のみの変更で専用回路を設計できるLSI
*7: ASTRO ARRAYの開発種類のアプリケーション別分類(総合電子出版社「実用PLL周波数シンセサイザ」1995年発行より)
*8: 携帯電話LSI(雑誌FUJITSU 1998 3月号「システムLSI」より)
*9: 携帯電話の1988年~2010年の加入契約数の推移(総務省の情報通信統計データから)

ロジック編2:プリスケーラの開発(No.10)

1978年(昭和53年)、カーラジオ (*1)向けに受信周波数を分周するICとしてプリスケーラの開発が始まりました。分周機能は、フリップ・フロップを基本として、当時富士通コンピュータFACOM230 (*2)用に開発されていたECLゲートアレイを使用し、50ゲート程度で構成されました。しかし、プリスケーラについては初めての設計であり、開発は手探りの状態でした。
次の開発は、1981年(昭和56年)に富士通の通信部門からの自動車電話 (*3)向けのプリスケーラでした。仕様に「動作周波数1GHzのデュアルモジュラス機能内蔵」とあり、開発者は、その仕様について、さらなる未知との遭遇状態での開発を強いられることになります。各種文献や特許資料などから調査し、開発を行い、その結果、富士通のプリスケーラの代名詞となるMB501 (*4)を誕生させることができました。また、MB501は、世界中のメーカでコンパチ品が開発され、世界のデファクトスタンダードになったのです。1980年代のプリスケーラのターゲット市場である自動車電話とパーソナル無線の急成長に伴い、MB501は多くのお客様に採用されました。このため、高周波の試験に関するノウハウを蓄積でき、試験コストの優位性を高めることができました。
さらに、1984年には、最先端のバイポーラ技術を導入して、消費電力をこれまでの1/3に削減したMB501Lを開発し、IEDM(IEEE International Electron Devices Meeting:半導体製造技術関連の国際会議)に発表しています。世界の檜舞台へ富士通のプリスケーラが登場した年になりました。この発表を機に、高周波化、低電流化、および低電圧化などの製品開発が活発化してRFでの世界のトップメーカとしての足がかりを築いていきます。

<参考>
*1: FACOM230(コンピュータ博物館より)
*2: カーラジオ(富士通テン「車と音響技術のあゆみ(4)」より)
*3: 自動車電話端末(富士通ミュージアムより)
*4: MB501(QSL.NETより)

ロジック編1(No.9)

1970年代後半、富士通が世界最高レベルを誇るゲートアレイの礎を築いたのは、バイポーラロジック (*1)でした。当時、LSIの時代に入るにつれてバイポーラ・ロジックは、高度な技術に支えられるようになり、その中で多くの優れたアイディアを集約し、富士通独自のエミッタ裸方式(セルフアライン・エミッタコンタクト方式)プロセス(エミッタ幅を最小限にし、トランジスタを高速化するための技術)を開発していきました。この方式は、他社のエミッタ裸方式と比較し、極めて安定(高歩留、高信頼度)した高速バイポーラ・プロセスでした。1977年には、日本最初の汎用ゲートアレイとして、MB14Kシリーズの外販を開始しました。その後、順調に開発品種を増やしていく一方、配線方式によるスループット(処理量、手番)の伸び悩み、ミスとトラブルの増加が目立っていきます。そこで、設計部門とCAD部門が連携し、CADによるレイアウト導入を開始したのです。「ゲート使用率100%」と「未結線0本」と厳しい目標を掲げ、「MB15Kシリーズ」を開発し、以降のゲートアレイにも継承していきました。
その後、最後となったMB110Kシリーズ開発までの全盛期を経た後、ECL、Bi-CMOSとテクノロジーは引き継がれていきました。

<参考>
*1: バイポーラ・ゲートアレイ バイポーラ・ゲートアレイ(国立科学博物館より)

富士通の半導体販売(No.8)

富士通の半導体製品が社外のお客様向けに販売されたのは、ICの開発を始めて11年後の1973年でした。当時、ICは社内で製造するコンピュータ向けに製造していたため、外部への販売はなかなか承認されなかったのです。
最初は、電算機販売部門内の数名の担当者により販売を始めましたが、販売方法が分からず実績も上がらない状態でした。しかし、通信機器やコンピュータ向けに半導体を供給していくうち、4年後の1977年には、半導体事業本部が誕生するまでになり、併せて半導体の営業部も設けられ、社外のお客様へ販売を積極的に開始することになりました。このため、特約店、取扱店制度を導入し、販売体制も完備しました。
1975年当時には、当社オリジナル世界最高速と自信作の4K-DRAMを設計担当者と一緒になって販売しましたがまったく売れませんでした。この経験を糧に、世界標準の4K-DRAM製品の開発へと繋げ、その後「メモリの富士通」 (*1)といわれるようになったのです。
しかし、受注拡大の過程では、EP-ROMのデータリテンション(ビット化け)のトラブルの多発など、苦情対応にも追われながら営業活動を模索していました。 (*2)
そのような苦労の時代を経て、今日の富士通半導体の礎となっているのです。

<参考>
*1: 1978年(昭和53年)にDRAMが使われていた 富士通コンピュータ
*2: 1982年(昭和57年) パソコンFM-7の広告

富士通のパソコンのはじめ(No.7)

1976年(昭和51年)に発売された、お客様が自分でボード、コネクタ、表示機器を組み立てて楽しむマイクロ・コンピュータ学習用「Lkit-8」 (*1)というパソコンキット商品が富士通のパソコンの原型です。
当時の富士通は、産業用電算機(FACOM 230) (*2)が最盛期であり、情報部門ではパソコンの開発を扱えなかったため、パソコンの開発は半導体部門で立ち上げることになりました。しかし、開発はもとより、販売経路についても半導体とは分野が異なるため、様々な苦労を乗り越え、ついに1981年(昭和56年)に、8ビットのパーソナルコンピュータ「FM-8」 (*3)を発表したのです。
FM-8は、世界初となる64Kbit-DRAM搭載で、2CPU、各種インタフェース機能内蔵の画期的な商品でした。しかし、各種オプションやアプリケーションの発売が遅れ、しかも、個人のお客様には高額だったこともあり、一般にはなかなか浸透しませんでした。
この経験から翌年1982年(昭和57年)には、各周辺機器や流通ソフトを整え、価格を下げ、さらには大々的に広告宣伝を展開して「FM-7」 (*4)を市場に投入しました。このため、FM-7は爆発的なヒット商品となり、文字どおり、個人向けのコンピュータとしての礎となったのです。
この後も半導体部門からは16ビットの機種を開発し、発表していきますが、1985年(昭和60年)に情報部門へパソコンの事業を移管しました。

<参考>
*1: Lkit-8(FUJITSU誌 1977 vol.28 No.3 口絵より)
*2: FACOM 230(ファコム230)
*3: FM-8(エフエム・エイト)
        FM-8(コンピュータ博物館より)
*4: FM-7(エフエム・セブン、Wikipediaより)

富士通のIC製品名称の由来(No.6)

1963年(昭和38年)頃は、まだ集積回路やIC(Integrated Circuit)という言葉が一般的ではなく、社内では固体回路あるいはMICRO LOGICとよばれていました。
当時、トランジスタの型格番号は、JISで番号の付け方が決められていましたが、ICについては、その発展の速さとバリエーションの多さのために標準化されず、今日でも各社が独自に呼称や型格を決めています。当社も、ICの製品名称について社内で議論した結果、「固体回路=Micro Block(当時の社内での呼び名)」の頭文字に番号を続けて「MBxxxxx」とすることを決めました。
最初のICを「MB100シリーズ」と名付け、以後新しい回路ごとに「MB200」、「MB300」と3桁の番号を付けました。ちなみに、MB100シリーズは、FAIRCHILD社のDCTL(Direct Coupled Transistor Logic)をベースにしたBIPOLAR LIGIC IC (*1)です。
その後、1965年頃に全体の体系を見直して、品種別(バイポーラロジック・リニア・複合トランジスタ・民生用回路・バイポーラメモリ・MOS・その他)に番号の割付を行い、以後基本的にはこれを継承して今の富士通の半導体製品 (*2)は名付けられています。

<参考>
*1: 1973年バイポーラ・ゲートアレイ MB11K(国立科学博物館-産業技術の歴史より)
*2: 富士通の 半導体製品

富士通の半導体専用工場の開設~会津工場~(No.5)

1960年代、富士通の「通信と電子」事業は、相次ぐ増産に伴い拡大し続け、各事業の専用工場が次々と開設されました。1966年(昭和41年)には、日本で初めてのクリーンルーム (*1)の設備が川崎工場内(神奈川県川崎市中原区)に構築されています。
このころ、福島県会津若松市では地域内に確たる産業基盤がないことから、若年労働層の県外流出が増加していたため、その対策として、工場建設の誘致を行っていました。そこで、当社は、同地方の労働力を期待し、半導体の組立てと試験を行う半導体専用の工場を開設したのです。これが会津工場です。
また、この年の6月1日に、「富士通信機製造」は「富士通株式会社」へと商号を変更しています。
そして、1970年(昭和45年)、会津工場は、会津若松地方随一の事業所へと成長しました。
この年の5月、表磐梯山麓で行われた全国植樹祭に天皇・皇后両陛下がご臨席された折に、会津工場のラインをご視察されました。このときのご感想を、天皇陛下は次のようにお詠みになられたそうです。
いたつきもみせにぬ少女らの精こむるこまかき仕事つくづくと見つ(昭和46年元旦 宮内庁発表)
以降、会津工場は、富士通の電子デバイス事業を支える基幹工場となっていきます。しかし、年月の経過に伴う設備の老朽化により、1998年(平成10年)に閉鎖となり、1984年(昭和50年)に開設された会津若松工場へと事業を引き継ぐことになりました。

<参考>
*1: 当時のクリーンルーム(右の写真)

当時のクリーンルーム

富士通初のIC(No.4)

富士通における最初のICの開発は、1962年(昭和37年)頃、当時の半導体技術課長がアメリカ出張から持ち帰って来たサンプルを、自らがスケッチして起こした図面を基に始まりました。
最初のプロセスは、N型の基盤を200µm(0.2mm)厚位になるまでエッチングで薄くし、両面からP型の不純物を貫通するまで拡散させて、N型の分離拡散を作り(アイソレーション)、その中にトランジスタや抵抗が形成されていました。この分離拡散は、72時間、100時間と気の遠くなるようなランニング時間を要し、しかも、当時の拡散炉は、温度計の目盛りを見ながら時々トランスのタップを切り換えねばならず、炉の監視のために工員は交代で徹夜しました。
このときのウェーハ (*1)は、大きさが直径1インチ(25.4mm)程度でしたが、200µm厚では、取り扱いに細心の注意を払ってもすぐに割れてしまいました。その後、エピタキシャル技術の完成により、この問題は解決されていきます。
さらに、N+埋没層拡散を行うことで、トランジスタのRcc(コレクタ直列抵抗)を低減するプロセスが開発され、バイポーラICプロセスの原型が完成されました。
この頃は、素子の構造や基本回路など、今では教科書に書いてあるようなことが毎日の新しい発見でした。他社製品を調べて、このパターンはなぜこんな形なのか、このトランジスタは何のために必要なのか、構造を考え、等価回路を書いて、ひとつずつ理解していきました (*2)
この地道な努力と思想が富士通の電子デバイス事業へと繋がり、現在も脈々と受け継がれ、富士通セミコンダクター製品を通じて最先端技術を皆様の元へお届けすることができているのです。

<参考>
*1: 当時のウェーハ(右の写真)
*2: システムLSI(CMOS)の原理
        システムLSI(CMOS)の作り方
        システムLSI(CMOS)のウェーハについて

当時のウェーハ

半導体の背景(No.3)

富士通信機製造は、昭和36年(1961年)会社名略称を「富士通」と統一し、「Communications & Electronicsの富士通」(Communicationsは、富士通の通信機器が日本の動脈となって働くこと、Electronicsは、トップメーカーとして産業界の頭脳を造っていることを意味し、富士通が通信機器とそれから発達した電子機器の総合メーカーであることを表す)という企業イメージを創造する方向に訴求していきました。 (*1)
昭和30年代の日本の総合電機業界は、ラジオ・テレビなど民生用機器を中心に急激な発展を遂げており、技術先導産業として大きく期待されていましたが、当時の通産省(現在、経済産業省)の策定した「電子工業振興5カ年計画」において、それらよりもさらに電子計算機やその他の産業用機器の発展の伸びが一層大きく見込まれました。
この時期、昭和34年から37年は、日本の電子計算機産業の歴史における黎明期となり、国産技術による開発、商用化が進み、富士通および国産電算機各メーカーは相次いで新製品を発表しました。
一方、大きな技術力を持つ米国電子計算機メーカーの国内輸入により、日本の電子計算機技術が危ぶまれましたが、日本政府による「国産電子計算機の育成」の諸施策実施と、国産電算機メーカー各社の意欲的な研究開発により電子計算機の国産化が本格化しました。
このように日本国内の総合電機業界が大きな活力を生み出されている時代に、富士通は半導体の開発を始めたのでした。

<参考>
*1: 「通信と電子の富士通」へ(富士通の歴史より)

半導体のはじまり(No.2)

1958年(昭和33年)、富士通は「躍進期」に入っていきます。
富士通は、ゲルマニウム点接触ダイオードに次いで、この年、ゲルマニウムnpn成長接合形トランジスタの製造を開始。その後、ラジオ用アロイ形トランジスタ、高周波用スーパーアロイトランジスタなどを開発しました。
同年3月には「トランジスタ (*1)化製品の展示会」を開催し一般に披露しました。
同年、富士通では初めてのトランジスタ化搬送装置の納入開始となり、1960年(昭和35年)2月には、川崎(武蔵中原)にトランジスタ工場が竣工し、二交替勤務が開始されました。二交替という勤務体制(労働条件など)の導入に、勤労部の担当者は交替勤務を体験しつつ試行錯誤で対応していたようです。
同時に、富士通は、次期トランジスタとして「シリコン・トランジスタ」の開発に取り組み、1961年(昭和36年)に「2SC26/2SC27」の提供を開始しました。
さらに開発に開発を重ね、その後の富士通の集積回路事業へ踏襲されることとなったようです。

<おまけ情報>
1960年の富士通製品リレー式計算機技術継承プロジェクト1960年の富士通製品の現役で稼働する世界最古級のコンピュータ「リレー式計算機」 (*2)を富士通ではこれからも稼働し続けようとプロジェクトが進行している。

<参考>
*1: 当時のトランジスタ
*2: リレー式計算機(富士通リレー式計算機技術継承プロジェクトより)

誕生(No.1)

今日の「富士通株式会社」は、1935年(昭和10年)6月20日「富士通信機製造株式会社」から出発しました。世間では大阪タイガース発足した年だったようです。 (*1)
さて、それから17年後の1952年(昭和27年)「富士通信機製造(現富士通)」は、主流であった通信事業に伝送事業が加わり、それに伴い新技術の「真空管」と「半導体」が始まりました。
この時の「半導体」は、真空管に変わる新しい技術として「トランジスタ(ダイオード)」の開発しており、1954年(昭和29年)川崎工場で製造開始され、そして1957年(昭和32年)ついに「半導体課」が誕生しました。
この年は、100円硬貨が発行され、長嶋茂雄さんが巨人軍入団が決まったそうです。

<参考>
*1: 富士通の歴史(早わかり富士通の歴史より)

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