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「総括的検証2.0」が必要だ(上)
―金融緩和の「出口」の前に景気後退を迎えるリスク―

2017年8月30日(水曜日)

1.好調景気に潜む影

(足もとの景気は極めて好調)

足もとの国内景気は極めて好調である。実際、実質GDPは昨年初から6四半期連続のプラス成長であり、直近4~6月の成長率に至っては年率+4.0%の高成長となった。もちろん、この4%成長については、(1)個人消費が基礎統計の振れや天候要因などから一時的に高い伸びとなったことや、(2)昨年夏に策定された大型景気対策(いわゆる「28兆円対策」)に伴う公共事業の進捗がこの時期に集中したことなど、「出来過ぎ」の面があることは否定できない。個人消費については、賃金が伸び悩む状況(今夏の賞与は前年比減少が予想されている)で高い伸びを続けるとは考えにくく、7~9月以降は減速する可能性が高い。また、景気対策の公共事業については、これだけの景気堅調の中(景気悲観論が拡がった昨年も、実際にはプラス成長が続いていた)、しかも建設分野の人手不足が極めて深刻な時に(「建設・採掘の職業」の有効求人倍率は4~5倍の高さである)、そもそも大規模な景気対策が必要だったのかという議論はある(注1)。それでも、昨年来景気をリードしてきた外需がマイナス寄与となっても、これだけの高成長が実現したのだから、景気の基調が強いことは間違いない。

中でも、筆者にとって驚きだったのは設備投資、とりわけ民間建設投資の強さであった。設備投資については、昨年中頃まで増加基調とは言いつつ、ごく緩慢な伸びに止まっていた。それがここに来て急に伸びを高めているのだが、その正体は建設投資であったらしい(注2)。経済産業省の全産業活動指数から実質GDPに相当する同指数の全体と、建設業活動指数のうち民間建設投資に相当する「民間企業設備(非住宅+土木)」のグラフを描いてみると、足もとで民間建設投資が急増していることが分かる【図表1】。多分、「オリンピック需要」の発現を示すものだろう。筆者には「オリンピックで(ホテルならともかく)オフィス需要が増えるはずがない」という思い込みがあって、都内でのビル建設ラッシュをこの眼で見ながら、これまでその影響を軽視してきた。だが、実際のデータに表れてくれば今さら否定するわけにはいかない。未だに「オフィス市場はいずれ深刻な調整局面に見舞われるだろう」と思うが、首都圏のオフィスビル供給のピークは来年度とされていることを踏まえると、当面は設備投資も堅調に伸びていく可能性が高い。

【図表1】建設投資(全産業活動指数)
【図表1】建設投資(全産業活動指数)

確かに、景気は好調でも賃金や物価がなかなか上がらないという問題はある。また、その理由については本欄でも何度か論じてきた(例えば、物価はなぜ上がらないのか『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』:書評と考察など)。しかし、普通に考えるなら、浜田宏一内閣官房参与が言うように、「国民の負担になるインフレがなく雇用が拡大しているのは良い状況」(注3)ということだろう。

(景気・物価情勢とマクロ政策の不適合)

にもかかわらず、筆者は日本経済の先行きに強い危惧を覚えざるを得ない。それは、現在の景気・物価情勢とマクロ経済政策の枠組みとが不適合の状態にあると考えるからだ。先に見たように、景気は財政金融政策の支えなしに自律的な拡大が期待できる状況にある。普通ならばマクロ政策は景気刺激的から中立的、ないし幾分引締め気味への転換が求められるタイミングだろう。しかし、日銀は2%の物価目標を掲げて大胆な金融緩和を始めた手前、7月時点の消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は+0.5%、生鮮食品とエネルギーを除いた新型コアでは+0.1%と、インフレ率が目標に遠く及ばない現状では金融緩和の手を緩めるわけにはいかない。実際、オーバーナイト金利を-0.1%、10年物長期金利を概ねゼロとするイールドカーブ・コントロール(YCC)を続けつつ、日銀のバランスシートの規模は未だに拡大を続けている。8月13日付け日経新聞朝刊によれば日銀の総資産の規模は約500兆円と、FRBのそれを上回ったという【図表2】。

【図表2】日銀総資産、世界最大も視野
【図表2】日銀総資産、世界最大も視野
出所)日本経済新聞

となれば、本来は巨額の政府債務を抱える財政が引締め気味の運営をすべきであろう(このままでは対外公約でもある「20年度のプライマリー・バランス黒字化」の達成さえ難しいとの見方が一般的だ)。だが、政治経済的に考えれば、政治家が財政的な引締めを望むのは、(1)インフレ率の上昇が国民からの不評を買う場合か、(2)金利上昇で財政の首が回らなくなるか、のいずれかしかない。しかし、日本の場合、当面物価は大きく上がりそうにないし、物価が上がらない限り日銀緩和が続くため、金利上昇を心配する必要もない(物価目標に失敗し続ける日銀こそ、安倍政権にとって最も好都合だということになる)。事実上、マクロ政策は景気に関係なく、物価だけで決まる仕組みになっているのだ。だから消費増税が二度までも先送りされ、「世界経済の先行きにリスクがある」という理由だけで前述のような大型景気対策が実施されたのである。それどころか最近では、教育国債を発行して大学無償化を進めるといった信じ難い政策まで検討されていると言われる(注4)。

筆者が今一番懸念するのは、日銀が金融緩和の「出口」に辿り着く前に次の景気後退局面を迎えるリスクである。日銀は7月の「展望レポート」で2%の物価目標達成の時期を「18年度頃」から「19年度頃」へと先送りした。先送りは既に6回目だから驚く必要はないのかもしれないが、今回の先送りは深刻な含意を持つ。というのも、18年度までに物価目標が達成されるなら、日銀は長期金利ターゲットの調整だけでなく、短期金利の引上げ(その先にはバランスシートの縮小)といった現在FRBが進めつつあるような「出口」戦略を同年度中にスタートする可能性があった。しかし、物価目標達成時期が19年度となると、19年10月の消費増税を前提とすれば、「出口」戦略の本格化はその影響を見極めた後、すなわち最速で2020年度入り後、今から3年近い先の話になる。

問題は3年先まで現在の景気拡大局面が続くかどうか、である。多くのエコノミストは来年度辺りまでは現在の好景気が続くと考えているが、「3年先となると自信がない」のが普通ではないだろうか。今回の景気拡張期間は間もなく「いざなぎ景気」を抜き、来年度まで続けば戦後最長となる。筆者は景気拡張期間の長さだけで先行きを占う考え方には反対だが、前述のように建設投資を中心に設備投資の伸びが高まっている事実を踏まえれば、来年度後半には景気は自律的な成熟局面を迎える可能性が高い(注5)。成熟局面=景気後退ということではないが、外的ショックへの耐久力が弱まることは否定できない。そうした中で、(1)米国経済が株価バブルを抱えつつ(注6)、FRBによる金融引締めにいつまで耐えられるか、(2)不動産バブル、企業の過剰債務を抱えた中国経済が、今年の共産党大会を超えていつまで持ち堪えられるか、など外的ショックに直面するリスクは相応にあると考えざるを得ない。

仮に物価目標達成前に景気後退局面を迎えても、日本の政策対応余地は極めて乏しい。まず、バランスシートを目一杯膨らませ、マイナス金利まで導入した日銀に追加的にできることが少ない(注7)のは誰の眼にも明らかだろう。本来は財政の出番だが、前述のとおり安倍政権は日銀緩和をいいことに財政健全化を先送りしているため、財政出動余地(fiscal space)もほとんどない。もちろん、現在の人手不足は生産年齢人口減少による構造的なものだから、多少の景気後退程度なら失業者が大きく増えることはないだろう。浜田氏のように「マクロ政策評価の基本は雇用」と考えるなら、特段の対応は不要と割り切る手もある(それが政府・日銀にできるだろうか?)。だが、リーマン・ショック後の金融緩和の後遺症で世界のあちこちに資産バブル的な動きが拡がっていることを考えると、外的なショックがかなり大きなものとなり、多少の景気後退程度では済まない可能性もある。そのリスクへの備えを全く欠いているというのが、足もとの景気好調でも筆者が先行きを楽観できない所以である。

2.「総括的検証2.0」の必要性

以上の点を踏まえると、まず日銀に求められるのは「総括的検証2.0」を世に問うことだと思う。昨年10月の本欄(日銀の「総括的検証」を読み解く)でも論じたことだが、昨年の「総括的検証」の主眼は、金融政策のレジームを量的拡大に主眼を置いたQQEから金利を軸としたYCCへと転換し、持続可能な枠組みとすることにあった(注8)。このレジーム・チェンジは比較的うまくいったと筆者は評価している。その理由は第1に、従来繰り返してきたサプライズ戦略を放棄したことで、市場とのコミュニケーションがかなり改善したことである。依然として過度に強気な物価予想は市場から全く相手にされていないが、かつて見られた「展望レポート」ごとの為替・株価の乱高下はすっかり収まっている。第2に、YCC自体に強力な金融緩和効果はないが、外的環境が追い風の局面では相応の効果を持ち得る。事実、昨年11月から年初に掛けてのトランプ・ラリー(英語ではreflation trade)局面では、米国の長期金利上昇時にも国内長期金利はゼロ近傍に抑え込まれるため、金利差拡大を通じてドル高・円安につながった(ドラギ総裁の発言からECBの金融緩和縮小が意識された時にも、ユーロ高・円安となった)。

しかしながら、上記オピニオンでも指摘したとおり、「総括的検証」の分析内容は決して誉められるものではなかった。中でも、物価目標が当初約束した「2年程度」で達成できなかった理由を原油価格の下落と海外経済(特に新興国経済)の弱さに押し付けた言い訳は、当時から多くの識者の批判を呼んでいた。そして案の定、今ではエネルギー価格は消費者物価上昇率の押し上げ要因として働いており、また前述の日本経済の好調も昨年来の世界経済の回復(特に製造業循環の好転【図表3】)に支えられたものだ。にもかかわらず、インフレ率は依然としてゼロ近傍なのだから、「総括的検証」の評価が全くの見当違いだったことは明白である。それ以上に深刻なのは、2%の物価目標を黒田総裁の任期内達成することが絶望的なだけでなく、来年4月に成立する新体制は(仮にそれが黒田総裁再任下であったとしても)武器弾薬を使い尽くした後での景気後退という最悪シナリオに直面するリスクがあることだ。やはり遅くとも年内に信頼に足る「総括的検証」を示すことが現体制の責任ではないか。

【図表3】製造業PMI
【図表3】製造業PMI
出所)7月26日の日本銀行中曾副総裁講演より

この「総括的検証2.0」においては、少なくとも次の3点について明確な判断を示す必要があろう。まず第1は、物価目標が達成できなかった理由について、より説得力のある説明を与えることだ。原油価格や海外経済に責任を押し付けるのは論外だが、すべてを「インフレ期待」との関連で議論する方法も生産的ではない。筆者自身が様々な機会に試みてきたように、企業の賃金・物価設定(あるいは労働組合の賃上げ要求)行動にまで踏み込んだ分析が求められよう(注9)。第2に、「出口」戦略についての言及が必要である。この点、金融政策のオペレーションとしては、物価上昇率が高まるにつれ、まず長期金利ターゲットの調整が行われ、ついで短期金利の引上げ、バランスシートの縮小の順で進んでいくであろうことには概ねコンセンサスが存在する。むしろ金融緩和の「出口」で日銀が蒙る損失=「財政コスト」の問題から目を背けないことが、次期体制に対する責任だと思う。

そして第3に、最も困難な課題は2%の物価目標について、もう一度考え直すことである。筆者は従来、当初の「2年程度」は無理だとしても、構造的な人手不足が賃金上昇圧力になることを前提に、2%目標は今次景気拡大局面のうちに達成可能だと考えてきた。だからこそ、2%目標は堅持しつつ持久可能な政策枠組みを構築すべきと論じてきたのだ。しかし今、この前提自体が揺らぎ始めていることを考えると、物価目標そのものについても再考が必要だと思う。以下、本稿では上記3つの課題について、日銀が示す回答を予想するのではなく、筆者自身の私見を述べていくこととしたい。

3.物価目標を達成できなかった理由

(QQEの本当の狙い)

物価が何故上がらなかったのかについては、本欄でも何度も論じてきたが、以下では(1)QQEにおける日銀の本当の狙いは何だったのか、(2)その狙いは何故思うように実現しなかったのかという2つの問いに即して考え直してみたい。以下の行論は、拙著『金融政策の「誤解」』の第1章、第2章で述べたことをより直截に書き直したものと理解することもできる(しばしば断定調で述べるが、不審に思う読者は直接拙著で確認して欲しい)。

まず、日銀がQQEで本当に狙っていたのは、マネタリーベースを増やせば広義のマネーストックが増えるとか、インフレ期待が高まるとかの効果を通じて物価が上昇するという、数量説的・リフレ派的ロジックに基づくものではなかった(こうした考えは経済理論的に間違いである)。黒田総裁の立場で公言することはできなかったが(注10)、市場を驚かせるほどの大胆な金融緩和(=黒田バズーカ)を行うことで、大幅な円安を実現することが出発点にあった。この目論見にもやや非合理的な要素はあるが、(1)実際の為替市場にはソロス・チャートを使って取引を行う参加者が少なからずいることに加え、(2)アベノミクス前の円ドル相場は1ドル=80円程度と購買力平価(概ね100円)に比べ「過度の円高」であった(したがって、均衡に回帰するだけで大幅な円安となり得た)ことを考えると、全く無理な想定ではなかった。

そして仮に大幅な円安さえ実現すれば、以下のような展開が期待できた。(1)円安によって消費者物価は比較的速やかに上がる(物価上昇第1弾)。(2)円安で輸出数量が増加し、景気は良くなる(需給ギャップも改善する)。(3)円安の価格効果と輸出の数量効果で企業収益は大幅に改善する。(4)企業収益の増加を背景に賃上げが実現すれば、需給ギャップの改善効果もあって物価が上がる(物価上昇第2弾)。物価上昇第1弾は一過性だが、第2弾まで行けば持続的な物価上昇が実現する。あまりに都合の良い議論に聞こえるかもしれないが、複数均衡が存在するモデルを想定すれば、これは悪い均衡から良い均衡へのジャンプを意味することになる【図表4】。

【図表4】複数均衡のモデル
【図表4】複数均衡のモデル
出所)James Bullard[2010]:"Seven Faces of 'The Peril'", Federal Reserve Bank of St. Louis Review 92

もちろん本当に複数均衡なのかは定かでないから、QQEには実験的色彩が強かった。しかし、これまで様々な努力にもかかわらず永い間デフレから抜け出すことができなかった事実を踏まえれば、試みる価値のある実験だったと思う。一方、この作戦の本質はショック療法による「短期決戦」だという点にある。だから短期間で成功しなければ、その後ずるずるとマネタリーベースを増やしても意味はないと予め理解しておくべきであった。

(QQEの目論見が外れた理由)

その実験の結果はどうだったのか?まず周知のように、金融市場は大幅な円安と株高という形で反応した。この面でショック療法は成功だったと言えよう。当然ながら、大幅な円安を背景に物価も上昇に転じた。生鮮食品を除いた消費者物価の前年比は13年中頃からプラスとなった後、14年春には+1.5%と2%目標まであと一息に迫ったため、アベノミクス、QQEは成功との見方が拡がった。

だが、順調だったのはここまで、である。QQEの目論見がうまくいかなかったことを理解するために、以下では日本経済を2つの部門、すなわち日本を代表するような製造業の大企業や大銀行、大商社などから成る第Ⅰ部門と、それ以外の中小企業や小売業、サービス業から成る第Ⅱ部門に分けて考えてみよう。雇用の面からみると、第Ⅰ部門は終身雇用のメンバーシップ型社員が中核となる企業群であり、第Ⅱ部門はパートやアルバイトなどの非正規雇用を多く抱える企業群である(第Ⅱ部門では、正社員であっても年功賃金カーブは緩やかであり、社員の入れ替わりはかなり激しい)。

そうすると、円安で大きな恩恵を蒙るのは主に第Ⅰ部門である。今回の円安局面では、企業が消費地で海外生産する戦略を固めていたため、従来と異なり円安でも輸出数量がほとんど増えないという誤算はあった(注11)。それでも、輸出採算は改善するため輸出企業の収益は増える。それだけではない。近年では非製造業でもグローバルに活動する企業が増えたため、円安になると海外部門の収益が円換算で膨らむ結果、輸出企業でなくても円安は収益改善要因となる。結果として、上場企業などは過去最高を大きく更新する利益を上げることとなった。

問題は、史上最高益でも第Ⅰ部門の設備投資が大きく増えることはなく(日銀短観では、大企業の設備投資計画は年度初には強気であっても、徐々に下方修正されるパターンがここ数年定着している)、賃上げもごく小幅に止まったことだ。筆者が繰り返し論じているように、第Ⅰ部門では中長期的な競争力に自信を失う一方、終身雇用を維持しなければならないことが重荷となって、企業が積極策を打ち出し難くなっている(労働組合も、相対的に高賃金の正社員の雇用を維持することを重視するため、なかなかベース・アップまでは要求できない)からだろう。安倍政権が期待してきた「経済の好循環」を止めてしまったのは、こうした第Ⅰ部門の労使双方の行動様式(=「デフレ・マインド」の正体)だったということになる

さらに困ったことに、日本では春闘の相場形成は自動車、電機、鉄鋼など第Ⅰ部門に属する企業が集中する金属労協(IMF-JC)加盟企業による集中回答が担う慣行となっている。このため、パートやアルバイトの賃金は比較的順調に上がり(現状は前年比+2%台半ば)、中小企業の賃上げ率も徐々に上昇しつつあるとはいえ、マクロで見た賃上げはごく小幅に止まらざるを得ない。円安で物価が上がっても賃金は上がらないとなれば、実質賃金が低下してしまうのは当たり前のことである【図表5】。雇用者数が増えているのは事実だが、短時間労働者が中心のため、実質所得の増加には限界がある(注12)。

【図表5】実質賃金(前年比、%)
【図表5】実質賃金(前年比、%)

一方、第Ⅱ部門においては、円安の直接の恩恵は少なく、輸入コストの上昇に伴うマイナス面の方が大きい。もちろん、「経済の好循環」が廻って消費需要などが喚起されれば第Ⅱ部門にも恩恵が及ぶはずだが、上記のように賃金が上がらず実質所得が伸び悩めば消費も伸びない。この弱い個人消費に直面するのが第Ⅱ部門である。アベノミクス期に入っても、企業による消費財の価格設定が慎重だった(価格の硬直性は改まっていない)ことは渡辺努東大教授らの研究(注13)からも明らかだが、第Ⅱ部門から見ればそれは止むを得ない行動だったと言えよう。パート・アルバイトなどの労働コスト上昇にもかかわらず、非製造業や中小企業の収益率は趨勢的な改善を続けてきたが、この春スーパーやコンビニが採った価格戦略が日用品の一斉値下げだったことは記憶に新しいところだ。

結局、アベノミクス、QQEが所期の目的を達し得なかったのは、第Ⅰ部門で収益が増えても投資も賃金も増やさないという行動様式が定着してしまったからと考えるほかない。そして、そのことを所与とするならば(「日銀が断固たる姿勢で物価目標にコミットすれば企業行動は変わる」という考えが幻想だったことはQQEの実験が明らかにしたとおりだ)、円安によって第Ⅰ部門に恩恵を与え、それを梃子にして賃金上昇→物価上昇を目指すというQQEの作戦自体に無理があったということになる。これはあくまで後知恵であるが、今後の政策運営を考える場合にも、過度に円安に依存しない戦略が重要だということになろう(注14)。

注釈

(注1) : GDP速報での公共投資は予算を基にした簡易推計が行われているため、人手不足などで工事の進捗が遅れる場合には、確報公表時点で下方修正が行われることがある。実際、アベノミクス初期の公共事業拡大時には確報で大幅な下方修正が行われており、当時以上に人手不足が深刻化している今回は、大幅な下方修正となる可能性がある。ただし、改訂が行われるのは17年度の確報公表時、すなわち来年12月である。

(注2) : ここで「らしい」と述べるのは、オフィスビル建設などは法人季報や日銀短観などには十分反映されていない場合があるからだ。法人季報や日銀短観の「設備投資」に計上されるのは、取得された資産がその会社のバランスシートに載る場合のみである。建設投資でも工場建屋などはほぼ確実にバランスシートに掲載される。しかし、オフィスビル建設、特に都市再開発案件の場合、不動産会社単独の開発ではなく、多数の事業者がジョイントベンチャーの形でSPCを設立する場合が多い。そうなると、オフィスビルを所有するのはSPCであり(SPCは法人季報や日銀短観の調査先にはならないことが多い)、不動産会社のバランスシートにはSPCへの出資だけが計上され、「設備投資」としては把捉されない。

(注3) : 7月25日付け日経朝刊に掲載された浜田氏へのインタビューより。

(注4) : 筆者はごく最近知ったのだが、大学業界では以前から「2018年問題」が懸念されていたらしい。日本では、少子化に伴って1990年代前半から18歳人口が減少に転じた後も、主に進学率の上昇を背景に大学数、大学定員数は増加を続けてきた。しかし、大学進学率が50%を超えてさすがに頭打ちとなる中、定員割れの大学が増えている(若者の流出を恐れる地方自治体による私学の「公立化」の動きも拡がっている)。こうした中、2018年以降若者人口が一段と大きく減少すると、経営に行き詰まる私大の急増が予想されているのだ。

もちろん、「能力があり意欲もある若者が家庭の経済的事情で進学を諦める」のは本人にとっても日本社会にとっても不幸なことである。だが、それなら給付型奨学金を拡充するのが最も自然な対応のはずだ。このタイミングで「人づくり革命」に名を借りて大学無償化を進めるならば、それは2018年問題を控えた定員割れ大学への救済策になるだけだろう。

実を言うと、筆者は大学無償化に必ずしも反対ではない。だが、それはあくまで大学教育の中身の改革が行われ、北欧型の福祉社会が実現される場合の話である。

(注5) : 実際、日銀の7月「展望レポート」における19年度の成長見通し(政策委員の中央値)は+0.7%と控え目なものとなっている(17年度は+1.8%、18年度は+1.4%)。もちろん、これには消費増税の影響もあるが、年度の半ばに増税が行われるため、14年4月のように前年度に駆け込み需要が発生し、その反動が翌年度の成長率を大きく(駆け込み需要の2倍)押し下げることはないはずである。「展望レポート」には「資本ストックの蓄積やオリンピック関連投資の一巡による設備投資の減速」として、上記景気局面の成熟化のメカニズムが明記されている。

(注6) : 米国の株価は元々高水準にあったが、昨年11月の大統領選挙以降、トランプ大統領の経済政策への期待から大幅に上昇した。今やトランポノミクスへの期待は大きく低下したはずなのに、株価はその後も史上最高値更新を繰り返しており、多くの専門家がバブル懸念を抱いている(FRBも懸念を表明している)。ちなみに、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるイェール大学のロバート・シラー教授が計算する長期的に見たPER(CAPE)は現状30を上回り、世界恐慌前の1929年の水準に肉薄している(これを超えたのは2000年のITバブルの時期だけ)。

(注7) : 筆者が直ちに思いつくのはマイナス金利の深掘りくらいだが、マイナス金利は極めて評判が悪かったうえ、昨年2月の本欄(マイナス金利の導入:背景・評価・課題)でも指摘したように、日本ではマイナス金利拡大の余地もあまり大きくないと考えられる。

(注8) : 今でも長期国債保有額を「年間80兆円程度」増やすという文言は残っているが、現実の国債購入ペースはこの目処を大きく下回っている。現実の政策遂行の障害にならないなら、依然として「量」に拘るリフレ派政策委員の説得にエネルギーを費やす必要はないという日銀執行部のプラグマティズムの表れだろう。

(注9) : 筆者自身が行ってきたのは、過去の金融危機の経験に伴う負の遺産(learned pessimism)や「日本的雇用」の重荷が企業の投資行動のみならず賃金・価格設定の慎重化をも招いているというアイデアを示してきたことである。逆に言えば、精緻な実証分析による裏付けは行っていない(筆者一人では到底無理だ)。それは、大量のデータと多数の分析者を擁する日銀リサーチ部門の仕事だろう。

この点注目すべきは、7月の「展望レポート」において、3つのBOXを使って人手不足と賃金・物価の関係を丁寧に分析していることである。こうした分析をさらに深めて「総括的検証2.0」につなげて欲しい。

(注10) : 中央銀行が為替レートを直接ターゲットすることができないのは、そのことが大きな政治的摩擦につながりかねないからである。例えば今、日銀がさらなる円安を望むと公言すれば、トランプ大統領が激しく反発することは火を見るより明らかだろう。

しかし、短期金利がゼロに到達した後に行われる非伝統的金融緩和の主な波及経路が為替レートであることは経済学者の間では常識である。だから、当時のバーナンキ議長が公言することは決してなかった(議長は長期金利を押し上げる効果を強調していた)が、市場参加者の間でもエコノミストの間でも米国FRBが行った量的緩和(QE2、QE3)は主にドル安を狙ったものだと受け止められていた。

(注11) : 昨年から日本の輸出は比較的順調に増加しているが、それは前述の世界的な製造業循環の好転を反映したものであり、しかもこの増加は昨年秋までの円高局面でスタートしている。

(注12) : 雇用者報酬が増えていることを強調する論者もいるが、「賃金税」としての社会保険料で述べたように、そこには社会保険料の増加が影響していることを忘れてはならない。

(注13) : 渡辺努・渡辺広太[2015]:「デフレ期における価格の硬直化:原因と含意」、CARFワーキングペーパー

(注14) : にもかかわらず、未だに日本国内では円安=国益との見方が根強い。その理由の1つは、昔ながらの円高恐怖症にあるのだろう。これには、財界の主力は第Ⅰ部門であるため、円高を恐れる彼らの発言力が強いことが影響している。もう1つは、特に近年株価から景気を判断する傾向が強まっているからではないか(事実、一昨年前半は実体経済の低迷にもかかわらず、株価が2万円を超すと「いよいよ好循環が始まった」との見方が拡がったし、昨年前半は底堅い景気展開にもかかわらず、株安を背景に景気悲観論が拡がり、消費増税再延期や大型景気対策につながっていった)。上場企業、特に日経平均採用銘柄は圧倒的に第Ⅰ部門の企業であるため、円安になれば景気は良くならなくても株価は上がるからである。

関連サービス

【調査・研究】


早川 英男(はやかわ ひでお)
経済研究所エグゼクティブ・フェロー
1954年愛知県生まれ。1977年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。1983~1985年米国プリンストン大学大学院(経済学専攻)留学(MA取得)。調査統計局長、名古屋支店長などを経て2009年日本銀行理事。日本銀行在職期間の大部分をリサーチ部門で過ごした後、2013年4月より現職。
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