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『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』:書評と考察

2017年6月22日(木曜日)

(はじめに)

玄田有史東京大学教授の編集で『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶應義塾大学出版会)という書物が出版された(以下、本書と呼ぶ)。この本の帯にもあるように、これはまさに現在の日本経済の「最大の謎」に挑む試みだと言えよう。実は筆者自身も、このオピニオン欄などで何回か雇用と賃金の問題に取り組んできた(注1)。ただし、従来の筆者の考察は主に「日本的雇用」(大企業の正社員を中心としたメンバーシップ型雇用)に焦点を当てたものである一方(注2)、現実の日本の労働市場は遥かに複雑で多面的なものである。

この点、本書の大きな特徴は、敢えて書物としての見解の統一性に拘ることなく、総勢20名以上の研究者を動員することで、序と結びを併せて18章にも及ぶ多様な観点からこの「謎」に挑んだことにあろう。具体的には、正規・非正規雇用の違いに注目しつつ(【正規】)、正統的な【需給】分析だけでなく、【行動】経済学的視点をも取り入れながら、労働市場を取り巻く【制度】や【規制】の影響についても分析が行われている。このほか、本書では能力開発や人材育成(【能開】)、高齢・世代問題(【年齢】)といった見逃されがちな論点にも目配りがなされている。

このように多様な内容を含む本書について、各章ごとに分析を紹介しコメントを加えていくという形での「書評」はあまりにも煩雑になろうし、生産的とも思えない。そこで以下では、本書で採り上げられたいくつかの論点を参照しつつ、筆者自身のこの問題に関する「考察」を展開することとしたい。

1. 基本的な事実の確認

(本当に賃金は上がっていないのか?)

なぜ賃金が上がらないのかの議論を始める前に、まずいくつかの事実を確認しておきたい。最初は、失業率が2%台まで低下し、有効求人倍率に至ってはバブル期に記録されたピークをも上回る人手不足なのに(【図表1】)、「本当に賃金は上がっていないのか」という素朴な疑問である。

【図表1】労働需給

【図表1】労働需給

この点、賃金に関する基本統計である「毎月勤労統計」(厚生労働省調べ)の所定内給与を見ると(【図表2】)、いまだに前年比ゼロ近傍に止まっており、これを見る限り、確かに人手不足でも賃金は上がっていない。しかし一方で、リクルート・ジョブズ社調べの「アルバイト・パート募集時平均時給」を見ると、パートやアルバイトの時給は着実に上昇しており、足もとの前年比は2%台半ばに達している。CPIの上昇率がほぼゼロであることを考えると、実質賃金で見ても比較的順調な上昇と言えよう。要するに賃金の現状は、(1)パートやアルバイトの時給は人手不足を背景に着実に上昇している一方、(2)雇用者の大部分を占める正社員の給料が上がっていないため、全体としての賃金はあまり上がっていないということになる。

【図表2】名目賃金(前年比、%)

【図表2】名目賃金

とはいえ、アベノミクス期に入って久し振りにベース・アップが復活したはずなのに、公式統計の賃金上昇はなぜほぼゼロなのか?ここには、構成比要因という統計上のマジックが影響している。その1つは、非正規雇用の比率の上昇である。非正規だけでなく、正規雇用でも(僅かにせよ)賃金が上がっていても、非正規雇用の賃金の水準は正規に比べ大幅に低いため、その構成比が高まると平均賃金は下がってしまうということである。このことは、本書でも多くの研究者が指摘している(第7章、11章、12章、14章など)。もう1つは、平均労働時間が短くなっていることである。時給ベースで計上される米国の雇用統計と違って、日本の「毎月勤労統計」では雇用者1人当たりの賃金が計上される。このため、労働時間が短くなると平均賃金は低下するのだ。実際には、非正規雇用で短時間労働者が増えていることの影響が大きい。

(雇用増加の実態)

ここで賃金の議論の大筋とは少し離れるが、この短時間労働者の増加についてコメントしておきたい。近年、政府やアベノミクスを賞賛するエコノミスト達から雇用者数の増加を成果として強調する議論を聞くことが多いが、その実態は短時間労働者の増加によるものである。実際、総務省の「労働力調査」から就業者数、「毎月勤労統計」から実労働時間を見ると、アベノミクス期に入って就業者数が増加に転じた一方( 注3 )、労働時間は(リーマン・ショックで大幅に減少した後、いったんは回復したが)アベノミクス期間中減少を続けていることが分かる(【図表3】)。

【図表3】就業者数と労働時間

【図表3】就業者数と労働時間

これは、高齢者と女性の労働参加率上昇、より詳しく言うと、(1)団塊世代の男性が65歳を超えても予想以上に働き続けたことと、(2)中高年の主婦パートが大幅に増えた結果である。おそらく人手不足の進行によって、これらの人達が労働市場に吸引されたのであろう。しかし、彼/彼女らはいずれも短時間労働者であるため、雇用者数×労働時間で測った労働投入量はほとんど増えていない。だから、雇用者数は増えても成長率は高まっていないのである。ちなみに、民主党政権期(09/4Q~12/3Q)の平均成長率+1.6%に対し、アベノミクス期(13/1Q~17/1Q)の平均成長率は+1.3%であった。

ここは大切な点なので、少し詳しく説明しよう。【図表1】に見るように、労働需給はリーマン・ショックに伴う不況から大きく悪化した後、09年終わり頃からほぼ一直線で改善しており、ここからはいつ安倍政権が誕生したかは見えない(ついでに言えば、消費増税の影響も見えない)。しかし、【図表3】を組み合わせるなら、この労働市場の改善は安倍政権の登場前後で2つの局面に分けて考える必要があることが分かる。すなわち前半は、不況期に残業時間が大幅に減ったこともあり、人数が増えるのではなく労働時間が伸びた。そして後半には人数が増加し始めたということである。この「労働時間から人数へ」というのは、景気回復期における日本の労働市場の標準的なパターンである。ただし、今回局面ではすでに生産年齢人口が大きく減っていたために、人数の増加は主に短時間労働者で賄わざるを得ず、結果として平均労働時間が短縮してしまったのだ。

とはいえ、生産年齢人口が減少を続ける中で、労働投入量が何とか横這いを維持しているのは「上出来」と評価することもできる( 注4 )。しかも、足もとで増えている短時間労働者は、65歳を過ぎても元気に働く高齢者であり、子育てを終えて時間に余裕のある主婦たちだ。一方で、就職戦線は完全な売り手市場だから、贅沢を言わなければ正規の職を得るのは難しくない。むしろ最近は非正規雇用の正規化も徐々に進みつつあり、新卒時に正規雇用を望んだが職を得られず、仕方なく非正規雇用に就いた人(=不本意非正規雇用)の数は着実に減少している。今や非正規雇用=不幸な働き方と捉えるのは偏見である。

(定期昇給とベース・アップ)

なお、本書を読んでいてやや気になったのは、定期昇給とベース・アップの関係がきちんと整理されていなかったことである。実際、「1人当たり賃金は上がっている」という記述もいくつか見られた(第7章、16章など)が、ここで上がっているとされた賃金は、しばしばマスコミで「今年の賃上げは2%強」と報道されるような定期昇給を含む賃上げのことだろう。

周知のように、日本では正社員について年齢ごとの賃金カーブを描くと、(賃金引下げや再雇用の対象となる50代後半以降を除いて)明確な右上がりの曲線となる(【図表4】)。そこで、労働者の年齢が上がるにつれ、賃金カーブに沿って賃金が上昇していくことを「定期昇給」( 注5 )、賃金カーブ自体が上方にシフトすることを「ベース・アップ」と呼ぶのである。ここでは、個々の働き手にとっては定期昇給分も含めて今年の賃金増加額だが、マクロの賃金に影響するのはベース・アップ部分だけだという点を理解する必要がある。そのため、ある1つの会社を考えてみよう。(1)個々人の給料は賃金カーブに沿って上がっていくが、(2)毎年賃金水準の低い新入社員が入って来る一方で、賃金水準の高いベテランが退職していく(両者の差は平均賃金を押し下げる)。その結果、賃金カーブ自体に変化がなければ(正確には社員の年齢構成が不変の場合)、(1)と(2)が相殺して賃金総額は一定になるからである。

【図表4】賃金カーブ

【図表4】賃金カーブ

(出所) 厚生労働省ホームページ

実は、定期昇給とベース・アップを明確に分けた統計は存在しない。ただ筆者は、毎年夏に厚生労働省が公表する「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」をベースにして、「ゼロ・ベア」と呼ばれた09~12年の賃上げ幅1.8%を定期昇給分と見做すこととしている( 注6 )(同じように考えているエコノミストは少なくない)。そうすると、ベアが再開されたと言われる14年以降のベース・アップ率は14年が+0.4%程度、15年が+0.6%程度、16年が+0.3~0.4%(今年はおそらく+0.2~0.3%)ということになる( 注7 )。つまり、「人手不足なのに賃金が上がっていない」のは、主に正社員の給料がほとんど上がっていないからである。

2. 正社員の給料が上がらない理由

(維持不能となったメンバーシップ型雇用)

こうした観点から本書を見ると、残念ながら正社員の給料が上がり難い理由について正面から答えた論文は意外に少ないことに気づく( 注8 )。例えば、第2章は企業が賃上げに慎重な理由を的確に整理しているが、もちろん「企業の言い分」だけで賃金が決まるわけではない。また第13章は、現在の「賃金表」の作り方が賃金抑制的に働くとしているが、これだけで賃金が上がらないことを説明するのは無理だろう。この点、過去の不況期に十分賃金を下げられなかったため、今は賃上げに慎重だとする第5章の説明はそれなりに説得的である。だが、リーマン・ショックで上がってしまった労働分配率を元に戻そうとする動きならばともかく、分配率がリーマン前のボトムをさらに下回っていこうとする現状まで「下方硬直性がもたらす上方硬直性」とするのは少し無理があるのではないか(無論、「企業はまた大きなショックが来ることを恐れている」と説明するのは可能だが、それはまさに「企業の言い分」に過ぎない)。

これに対し筆者は、従来から「雇用契約がjob descriptionを欠き、会社の命令次第で残業でも転勤でも受け容れる代わりに、生涯の雇用を保証してもらう」日本型メンバーシップ型雇用はもはや維持不可能であることを強調してきた。本欄でも、 今こそ「日本型雇用」を変えよう(1) では、人手不足時代には女性や高齢者の労働参加を促す必要があるが、残業・転勤何でもありの働き方では女性や高齢者の活躍は難しいと論じた( 注9 )。また、 物価はなぜ上がらないのか(2) では、かつての日本企業の強みであったOJTに基づくカイゼンだけでは企業の壁を超えてオープン・イノベーションが進む時代に対応できないと述べた。だが、賃金を主題とする本稿では、終身雇用が無理である所以をより直截に論じる必要がある。

それには、筆者が大学を卒業した40年前と今を比較してみると分かりやすい。当時定年は55歳が普通だったから、企業が保証する雇用期間は10年伸びたことになる。またその頃、多くの企業は自社の10年後の姿について、ある程度のイメージを描けていたと思う。しかし時は移って、グローバル競争が激化し、ビジネスモデルのサイクル自体も大幅に短期化した(かつての優良企業コダックの運命を考えよ!)。現在、日本最強の企業がトヨタであることは衆目の一致する所だろう。だが、そのトヨタでさえ3年先の姿は明確に描ける(エコカーの主力はまだHVだろう)としても、EVの時代になり自動運転車が普及する10年先の姿をはっきり描くのは難しいに違いない。10年先も分からないで、なぜ40年以上の雇用保証ができるのか。

そうした中、今月初めから来春の新卒採用が本格化し、報道によれば6月1日早々多くの内々定が出されたという。だが、少し考えて欲しい。来年の新卒に65歳までの雇用を保証するなら、彼/彼女らは2060年頃まで会社に残ることになる。その頃には日本の人口は3割近く減り、AI(人工知能)を備えたロボットなどの普及で雇用の現場は激変しているはずだ。40年もの雇用保証など無理なことは誰の眼にも明らかなのに、多くの企業が優秀な学生を確保しようと躍起になっている姿は「狂気の沙汰」としか思えない(人事担当者も学生も「不都合な真実」には眼を瞑っているのだと思う)。しかし、一時の熱から醒めて40年契約の重さを自覚すれば、正社員の給料を大幅に引き上げるなど、恐ろしくてできないのだろう(本書第5章が指摘するように賃金の下方硬直性があるなら尚更である)( 注10 )。

なおやや観念的ではあるが、日本的雇用に対する賃金は競争的に決まる賃金から長期雇用保証の保険料を差し引いたものが支払われると考えることも可能だ。そうすると、人手不足を反映して競争的賃金は上がっているのだが、高齢者雇用安定法の改正で65歳までの雇用が義務付けられたことと、上述した将来の雇用を巡る不確実性の増大によって保険料が上がっているため、実際に観察される賃金は上がっていないという解釈になろう( 注11 )。

(正社員の賃金上昇を抑制する様々な理由)

以上が正社員の賃金が上がらないことの本質的な理由だと筆者は考えるが、本書にはこのほかにも様々な賃金抑制要因が指摘されている。まず第1に、第1章で指摘されている介護分野の問題がある。急速な高齢化が進む日本では、介護こそ最も需要の伸びる産業であると同時に、最も人手不足の深刻な分野である。しかし、介護分野の賃金は主に財政的な理由から低水準に規制されている(正確には賃金自体が規制されているわけではないが、介護報酬が公的規制下にあるため、人手不足でも賃上げの自由度は乏しい)。このため、低賃金の介護労働のシェア上昇という構成比要因まで含めて、マクロの賃金抑制要因として働いていると考えられる。

第2は、第9章で指摘されている社会保険料の増大である。これは重要な問題なので、筆者は別の機会に採り上げたことがあるが( 注12 )、年金保険料や医療保険料は毎年のように上昇している(【図表5】)。この半分が企業負担となるため、給料は増えなくても企業の人件費は上昇する。特に大企業に多い健康保険組合では、高齢者医療への拠出金増加の結果、1人当たりの年間保険料は07年度から17年度までの10年間に約10万円、企業負担分だけで年平均5千円上がっている。最近の主要企業における春闘ベース・アップが月額数千円単位の戦いとなっている中で、医療保険負担だけで(ベア・ゼロの時期も含めて)同程度、ないしそれ以上の負担増があったことになる。

【図表5】社会保険料の推移(%、健康保険組合平均)

【図表5】社会保険料の推移

資料)健康保険組合連合会「平成29年度健保組合予算早期集計結果の概要」

第3は、本書第4章が指摘する「就職氷河期」世代の影響である。就職氷河期に高校、大学を卒業した世代は非正規雇用など不本意な職に就き、低所得を余儀なくされている人が多い。このことは筆者も認識しており、主に不況の後遺症(hysteresis)、ないし新卒一括採用の不公正(unfairness)の問題と考えてきたが( 注13 )、彼らが40代になり、本来高賃金の年齢のはずなのに低賃金に止まっていることが、マクロ賃金に対しても押し下げ要因として働いているようだ( 注14 )。

3. 非正規雇用の賃金上昇加速の可能性

(ルイスの転換点は近い?)

先に筆者は、パートやアルバイトの時給は比較的順調に上がっていると述べたが、過去5年間に生産年齢人口が5百万人近く減った中で、(【図表2】)で見たように就業者数が2百万人以上増えたのは、やはり驚きと言うほかない。これは本書第7章が強調するように、女性や労働者の労働供給が極めて弾力的だったことを意味する。裏を返せば、この女性・高齢者の弾力的な労働供給のおかげでパートやアルバイトの時給の上昇は前年比+2%程度で済んでいると考えることもできる。

しかし筆者は、別の場所でも論じたように( 注15 )、女性や高齢者の労働参加率上昇はそろそろ限界に近づいているのではないかと考えている。まず高齢者については、前述のように団塊世代が65歳を過ぎても予想以上に働き続けたことの影響が大きいが、団塊世代は今年から70歳代に入っていく。さすがにリタイヤする人が増えると見られる。また女性についても、労働参加率は米国並み、ないしそれをやや上回る所まで来た。政府などがしばしば参照する北欧水準にはまだ遠いが、公的な保育所等が完備した北欧とはあまりにも社会の仕組みが違う。筆者は女性の労働参加率はまだ上がると考えているが、さすがにこれまでの勢いからは鈍るだろう。

第7章の著者らは明記していないが、おそらく筆者と同様の見方をしているのではないか。そして大変興味深いのは、彼らが女性や高齢者の弾力的労働供給の臨界点を「ルイスの転換点」と呼んでいることだ。周知のように「ルイスの転換点」とは、経済発展論において、(1)開発の初期には生産性の低い農村から生産性の高い都市へと弾力的に労働が移動するため、大幅な賃金・物価の上昇を伴うことなく高成長が実現するが、(2)農村の余剰労働が枯渇すると労働移動が減少し、成長率が低下する一方で賃金・物価が上昇する、という転換点を指す。この言葉を使うと、筆者の見方は女性や高齢者の弾力的労働供給は「ルイスの転換点に近づいている」ということになる。

(ルイスの転換点の後)

この転換点にいつ到達するかを正確に予想することは難しいが、今の勢いならば早晩到達することは間違いない。そうなれば非正規雇用中心に賃金上昇率は加速して行くはずで( 注16 )、「なぜ賃金は上がらないのか」という本稿の主題からは外れるが、以下ではルイスの転換点の後に何が起こるかについて考えてみよう。

まず第1に、素直に考えれば物価が上がっていくはずである。正社員の給料はあまり上がらなくとも、限界費用に影響するパートやアルバイトの賃金が物価には大きく影響するからだ( 注17 )。2%の物価目標を掲げる日銀には願ってもない展開と言える。ただし、広く報道された宅配便のケースを見ても分かるように、人手不足に伴う人件費の増加は、値上げとサービス水準の低下の2つの方法で調整される可能性が高い。実際、宅配便の場合も過去20年の人余りの時代に過剰なまでのサービスが提供されて来たわけで、これは「デフレ型ビジネスモデル」だったとも言える。サービス水準の低下とは、このデフレ型ビジネスモデルの修正に他ならない。

経済学的に言えば、サービス水準の低下(上昇)は価格の上昇(下落)を意味するが、実際の物価指数には反映されない場合が多い。宅配便に限らず、ファーストフード店の24時間営業、夜10時、11時まで開いているスーパーなどもデフレ型ビジネスモデルであり、これらもいずれ修正されていくだろう。したがって、パートやアルバイトの賃金が上昇すれば経済学的な意味での物価が上がることは間違いないが、そのうちどれだけが実際の物価指数の上昇に反映されるかは企業の戦略次第という面がある(逆に言えば、過去のデフレ期の物価下落は物価指数の低下以上だったということになろう)。

第2の注目点は、非正規雇用の賃金上昇が日本のメンバーシップ型雇用にどういう影響を及ぼしていくかである。(【図表4】)に見るように、もともと20歳代では正規と非正規の賃金格差は大きくない(学歴等を調整すれば、実際の格差はグラフ以上に小さいはずだ)。だから、このままパート・アルバイトの賃金上昇が続けば、若者についてはいずれ逆転が生じ得る。そうなれば企業は初任給の引上げなどを強いられるだろうし、初任給が上がれば賃金カーブ全体の調整が必要となる。さらにやや極論ではあるが、正社員の賃金カーブが現状のままで、非正規のフラットな賃金カーブが毎年2%上方シフトしていくなら、定期昇給(=1歳ごとの賃金カーブの傾き)が1.8%程度しかない以上、年収ベースでも正規と非正規の違いはなくなってしまう。賃金に違いがなく、このまま人手不足(職を見つけやすい)時代が続くなら、誰しも「残業・転勤何でもあり」は嫌だろう。つまり、非正規の賃金上昇は徐々にメンバーシップ型雇用の基礎を揺るがしていく可能性がある。

(終わりに)

以上述べてきたように、本書の特徴は多くの著者を動員することで、日本の労働市場の複雑さを複雑なままに描き出したことにある。本書を読めば、賃金が上がり難い理由は決して1つだけではなく、日本の労働市場を単純な自然失業率仮説、ないし安定したフィリップス曲線だけで描けるものではないことが誰にも理解できると思う。

そして、最後に述べたように当面の賃金・物価を考えるうえでの注目点は、(1)「ルイスの転換点」に到達するのはいつか、そして(2)パートやアルバイトの賃金上昇がさらに加速した場合、どれだけが実際の物価統計に表れるような物価上昇につながるか、の2点になると思われる。さらにやや長い眼で見た場合、現在の人手不足が単なる循環的なものではなく生産年齢人口の減少を背景とした構造的なものである以上、それがこれまでの日本的なメンバーシップ型雇用を変えていく大きなきっかけとなり得るのか、が重要なポイントになると筆者は考えている。

注釈

(注1) : 例えば、昨年8月本欄に掲載した「 物価はなぜ上がらないのか(2) 」のほか、拙著『金融政策の「誤解」』第4章を参照。

(注2) : 筆者が「日本的雇用」を中心に賃金問題を扱ってきたのは、上記拙著でも述べたように、デフレ脱却が定着するためには、東京大学の渡辺努教授が指摘するとおり、毎年物価が上がることが「ノルム」として社会に定着することが重要だと考えたためである。それには、毎年の春闘ベース・アップの復活が重要であり、主要企業正社員の賃上げが焦点となる。

(注3) : なお、アベノミクス期に入って雇用が明確に増加に転じたという姿が描けるのは、「労働力調査」のデータを使った場合だけである。「毎月勤労調査」の常用労働指数は、アベノミクス前から増加が続いている。

(注4) : 日本銀行が推計する日本の潜在成長率は約0.7%だが、これに対する労働投入の寄与はほぼゼロ(就業者数が+0.26%、1人当たり労働時間が-0.24%)である。以前は、2010年代半ばには労働投入の寄与が明確なマイナスになると想定されていたことを考えると、短時間労働者の増加は潜在成長率をも下支えしていることになる。

(注5) : 実際には、過去20年のデフレ期に制度としての定期昇給を廃止した企業は少なくない。しかし、毎年の昇給ではなくても(昇格期の階段状の変化でも)、全員一律でなくても(査定による個人差があっても)、平均としては右上がりの賃金カーブが維持されている場合が多い。ここでは、こうした広義の年齢による平均賃金の上昇を「定期昇給」と呼んでいる。

(注6) : 毎年当然のようにベアが行われていた1990年代前半は、定期昇給部分が2%程度と言われていた。定期昇給部分が減少したのは、この間に賃金カーブの傾きが少し緩やかになったためだろう。

(注7) : 一昨年頃まで筆者は、失業率が(労働需給が平均的にマッチする)構造失業率(≒3%台半ば)を下回り始める中で、賃金上昇率が緩やかとはいえ加速しつつあったため、「自然失業率仮説は概ね妥当しており、今後賃金上昇は加速していく(したがって、2%の物価目標もいずれ達成される)」と考えていた。だから、企業の史上最高益、深刻な人手不足の中で昨年の賃上げ幅が鈍化してしまったのは大きなショックだった。それ以来、賃金は筆者にとって「最大の謎」となった。

(注8) : 正社員の有効求人倍率がいまだ1に達していないこと(今年4月で0.97)から、「正社員は不足していない」との議論もあるが、さすがに正社員への需要をハローワークへの求人だけで考えるのは無理があろう。厚生労働省が3か月に1回行っている「労働経済動向調査」(企業へのアンケート)では、15年から正社員の労働者不足感がパートのそれを上回っている。

(注9) : 同じく「 今こそ「日本型雇用」を変えよう(2) 」では、若者の働き方が、将来が不安で結婚できない非正規雇用と、長時間労働で出会いの機会さえない正社員に二極化したことが未婚化・少子化につながっていると指摘した。

ただ、その時は気づいていなかったが、近年の幸福度研究では日本の男性高齢者、特に配偶者と離死別した人たちの幸福度が著しく低いことが指摘されている。おそらく、会社中心に生きてきた男たちが定年後に地域社会に溶け込めないためだろう。65歳まで働いても、あと平均20年生きるこの時代、これは深刻な問題である。

(注10) : そう考えると問題は、もはや維持できないことが明らかな「日本的雇用」がなぜ変わらないのか、である。実際、筆者自身を含む多くの識者が(1)job descriptionを明確にし、(2)企業の人事的裁量権を制約する一方、(3)雇用保証の条件を弱めるというジョブ型雇用をデフォルトにすべきだと論じてきた。

にもかかわらず、経営側は解雇の金銭解決など、雇用の弾力化(それこそ「最大の構造改革」と考える海外投資家はいまだに多い)には熱心な一方、人事権の制約は受け容れようとはしない。他方、労働組合は長期の雇用保証の確保こそが自らの存在意義だと考えている。正社員改革が「働き方改革」の本丸だとして政府が介入することもあり得るはずだが、労使双方が反対する改革に安倍政権は及び腰である。

(注11) : その場合、日本企業が多額のキャッシュを溜め込んでいるのも、将来事業が不振になっても赤字覚悟で事業を継続して雇用を守る(止むを得ずリストラを行なう時には割り増し退職金を払う)ための資金だということになる。そういう契約に労使双方が合意するなら止むを得ないが、個別企業毎の保険契約はあまりに非効率だろう。北欧のflexicurityのように、雇用は再訓練費用まで含めて政府レベルで保証する方が遥かに合理的ではないか。

(注12) : 週刊東洋経済(17年6月3日号)の「経済を見る眼」欄に執筆した「『一体改革』よ、もう一度」。なお、保険料は標準報酬月額対比であり、この金額には上限があるため、高所得者の負担はこれより低い。

(注13) : 筆者は、随分前に大竹文雄『日本の不平等』(2005年、日本経済新聞社)を読んだ時、日本では就職時の好不況によって生涯所得まで影響されてしまうことを知り、大きなショックを受けた。これが「日本的雇用を変えなくてはならない」と考えた最初のきっかけだったように思う。

(注14) : このほか本書では、企業が能力開発に不熱心になったため、人的資本の蓄積が進まず賃金が上がらないという説明がいくつか見られる(第6章、7章、14章)。確かに、企業が施すOJT、Off-JTともに減少しており、それが人的資本形成に悪影響を及ぼしている可能性はあろう。しかし、日本企業が主に頼ってきたOJTについては、その有効性自体が低下しているのではないか。地道なカイゼンが中心の時代ならともかく、既存事業を損なう可能性のある破壊的イノベーションや、企業の壁を超えたオープン・イノベーションが求められる時代に、「雑巾掛け」的なOJTはむしろマイナスに働く恐れさえある。

(注15) : 週刊東洋経済(17年4月8日号)の「経済を見る眼」欄に執筆した「人手不足は深刻化する」。

(注16) : ルイスの転換点を超えれば、賃金上昇が加速し物価も徐々に上がっていくのは望ましい変化だ。しかし、その場合は労働参加率の上昇テンポも弱まるため、(注5)で見た就業者要因による下支えが失われて潜在成長率はさらに低下することを意味する。

(注17) : ここで従来あまり明確にされていない賃金と個人消費、賃金と物価の関係について少し整理しておこう。まず個人消費の源泉となる所得については、雇用者の3分の2は今でも正規雇用であり、かつ1人当たり所得は(時給と労働時間双方の違いから)正規雇用の方が大幅に高い。したがって、個人消費を考えるうえでは正規雇用の賃金が重要になる。

しかし、物価への影響を考える場合(あくまで相対的にだが)、非正規雇用の賃金が限界費用に影響する一方、正規雇用の給料は固定費の性格が強い。(注2)に述べた賃金・物価のノルムの転換という観点ではなく、当面の物価への影響という観点では非正規雇用の賃金が重要になる。例えば自動車メーカーやメガバンクの月給が1万円上がっても自動車の価格やATMの手数料はあまり変わらないだろう。しかし、ファストフード店でアルバイトの時給を100円上げれば、何がしかの値上げが避けられない。

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【調査・研究】


早川 英男(はやかわ ひでお)
経済研究所エグゼクティブ・フェロー
1954年愛知県生まれ。1977年東京大学経済学部卒、日本銀行入行。1983~1985年米国プリンストン大学大学院(経済学専攻)留学(MA取得)。調査統計局長、名古屋支店長などを経て2009年日本銀行理事。日本銀行在職期間の大部分をリサーチ部門で過ごした後、2013年4月より現職。
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